講談社電子文庫    極彩の都 ムーン・ファイアー・ストーン3 [#地から2字上げ]小沢 淳   目 次  1章 河岸の町  2章 岸辺にひそむ影  3章 炎の|罠《わな》  4章 財宝狂詩曲  5章 襲撃ふたたび  6章 |城砦《じょうさい》都市  7章 奇跡の石  8章 |歓喜宮《かんききゅう》の|憂《ゆう》|鬱《うつ》  9章 故郷よりの使者   あとがき     1章 河岸の町  セレウコアは西に広大な領域を|占《し》める西の帝国の名であり、|堅《けん》|固《ご》な|城砦《じょうさい》となっている都それ自体の名でもあった。  かつてセレウコアは、都とその周辺だけを支配する小国にすぎなかった。現皇帝の何代か前の話である。  それから徐々にセレウコアは勢力を拡大し、各市に駐在の兵を置き、東から来る者たちを監視するようになった。  隊商や通行人から関税をとり、オアシスの市長や主だった要人には|朝貢《ちょうぐ》を義務づけた。  現在ではシェクとヤズトを結ぶ南北のラインが、セレウコアの実質上の国境となっている。  しかしアルルスより東の地はほとんどが不毛の荒れ地であり、市とは名ばかりの小さなオアシスが点在するだけで、セレウコアの支配も点の支配にすぎない。  有力な遊牧民の部族は昔ながらの勢力を保っているし、街道を狙う大規模な盗賊団も、以前ほど大っぴらに活動はしないまでも健在だ。  東の果てには、独自の高度な文化を誇るタウ帝国が何百年にもわたって君臨していたが、セレウコアを|脅《おびや》かすほどではなかった。十年ぐらいの間隔をおいて定期的な小ぜりあいはあるものの、広大な荒れ地が両大国を隔てていた。  現皇帝はむしろ、タウの文化に敬意を表し、在位期間のあいだの和平を申し入れ、積極的に使者を送りだした。  そんなやりとりを通じて、現皇帝とタウの|帝《みかど》のあいだには友情の|絆《きずな》が結ばれたという。表向きの芝居なのか、真実であるかはわからなかった。  タウの帝は、名もはっきりと知られていず、老いた女帝であるとも、ごく若い青年の帝であるともいわれていた。両性具有で、不老不死であるという話も伝えられている。  |謎《なぞ》めいたタウは、いつも何かしら西方の人々の恐れとあこがれをさそった。 「妙な国だな、タウというのは——西ではなく東に行くべきだったかな」  リューは、隣席の壮年の男に酒杯をさしだした。  赤ら顔のその男は識者だと名のり、一杯の酒でセレウコアをとりまく情勢を話してやるともちかけてきた。  ひとりで手持ちぶさただったので、リューはひまつぶしに男の話を聞いていた。あまり役に立ったとはいえないが、一杯おごる価値ぐらいはあった。 「そいつはよしたほうがいいな、お若いの」  うまそうに安酒をすすりながら、男は笑った。 「タウのまともな男たちはみな、頭を|剃《そ》りあげなければならんのだ。長くのばしていたりすると、|風《ふう》|俗《ぞく》|紊《びん》|乱《らん》の罪とやらで|鞭《むち》打ち刑になる。あんたはそのお陽さまみたいな金の髪を、残らず|剃《そ》りたくはないだろう」 「たしかにそれはごめんこうむりたいな」  のびた髪にさわって、リューは応じた。  面倒なので切らずにおいたら、前もうしろも肩のあたりまでとどいていた。これで身なりがもう少しましでなかったら、|乞《こ》|食《じき》に見えかねない。 「妙なことに、タウでは頭を丸めるかわりに、|髭《ひげ》をのばさなきゃいけないんだ。口髭や|顎《あご》髭の立派でないやつは、女と見なされても文句はいえないことになってる——聞いた話では、ある若い商人がそいつを知らずに髭なしで道を歩いていたら、問答無用で|男娼窟《だんしょうくつ》にほうりこまれたってさ」 「——すっかり行く気をなくしたよ。坊主頭の髭面ですごしたくはない」  本当か出まかせかわからなかったが、リューは追加を注文してやった。  識者と称し、ただ酒をねだって酒場にたむろするこの男に、彼は思いのほか慰められていた。まだ治りきってない細かな傷は痛むし、|自《じ》|己《こ》|嫌《けん》|悪《お》と相棒の冷たい態度に心の傷も深まり、彼はいささかまいっていた。  どれも自分が招いたことだったから、文句の持って行き場もなく、同情も期待できなかった。  こうしてひとりで安酒場にいても、彼は識者におごるばかりで、ほとんど自分では飲んでいなかった。今度ばかりは反省もあり、深酒をしてうさを晴らす気になれず、|鬱《うつ》|々《うつ》としていたのである。  アルルスを発ってから三日がすぎていた。  彼らは強行軍で朝から日暮れまで馬を飛ばし、昨日の昼すぎにはセレイカ湖のほとりに着いた。  それから街道を南下し、セレイカ湖から流れでるサライ河の橋を渡るはずだったが、思いがけなく足どめをくっていた。  橋を渡れば、セレウコアの|城砦都市《じょうさいとし》はすぐ見えるところにある。  いざというとき、東の|脅威《きょうい》から都を守るため、サライの大河には、湖口と海に流れこむ地点の二か所にしか橋を架けていない。  彼ら三人は、湖口の橋から都に入るつもりだった。  しかしその前夜に雷が落ち、彼らが到着したときには跡形もなく橋は砕け散っていた。  近辺の者たちの証言によれば、黒雲がふたつの月を隠し、|稲光《いなびかり》がとどろいたという。  けれど雨はまったく降らず、雷が落ちたのはそこだけらしい。  神々の怒りをかったとおののく者もいた。  街道ぞいには、地方に伝わる|土《ど》|俗《ぞく》|神《しん》のほこらや、旅を守護する聖人の像がたくさんあり、日頃は汚れて|埃《ほこり》をかぶっているそうした神々のにわか信者となる者もいた。  湖畔にはナクシット教団の小さな出張所もあり、グリフォンは目を光らせていたが、いつものあやしげな儀式をひっそりとおこなっているだけで、変わったところはなかった。  橋のたもとには宿場町があり、彼らはひとまずそこに落ち着くことにした。  そこからは近隣の漁師船が出され、急ぎの用のある旅人たちを向こう岸に運んでいた。  しかしグリフォンは、ちゃんとした船を調達できるまで待つべきだと主張した。河は荒れ気味で、転覆する船も少なくないと。  雷もふくめて、この足どめを、グリフォンは|罠《わな》だと考えているらしい。  一行の主導権はグリフォンにあったから、リューとしても異議をはさめなかったし、今はとてもさからう気力もなかった。  グリフォンは船を手配するために出かけていってもどらず、リューは夕方すぎから酒場でひまをつぶしていた。  都が近いだけあって、ささやかな宿場町にもセレウコアの兵士らしき者たちが歩きまわっていた。  旅人ふうに身をやつしている者も含めると、町にいる半分以上が兵士のように思えた。  酒場にいるリューを護衛しているふうの者もいて、それも彼には不快の種だった。  都に着き、皇帝に託されたものを渡すまでの我慢だと、彼は何度も自分に言いきかせなければならなかった。そうしたら、ナクシットとやらが、いかなる理由で彼らを狙っていたとしても、セレウコアの|版《はん》|図《と》から遠く離れるのみだと。  しかし東に取ってかえすのは、また荒れ地を越えなくてはならないし、北には大陸の背骨のようなベル・ダウの山々がつらなっている。セレウコアの西には見知らぬ|蛮《ばん》|族《ぞく》が住んでいるというし、南に行けば海につきあたる。  彼は途方にくれ、そうしたときによくやるように、あまり深く考えないことにした。  識者と自称する男からもそれ以上めあたらしい話は聞けそうになく、まだ夜も早いが、リューはおとなしく宿の部屋へもどることにした。冷戦中のエリアードと顔をあわせたくはなかったが、そろそろ|機《き》|嫌《げん》を直してくれないかと淡い期待をいだきながら。  アルルスを出てからの旅と、橋の宿場町に着いてからまる一日のあいだ、彼はアルダリアの|女泥棒《おんなどろぼう》のことを何度か思い出しただろうか。  忘れてしまったわけではなかったが、ちゃんと彼女のことを考えたのは数えるほどもなかったのは確かだ。  イェシルはその子分の少女といっしょに、アルルスでまた泥棒|稼業《かぎょう》を続けているものと彼はうたがわなかった。  また会いたい気持ちはあったが、彼女にはこれまでの生活があり、道がわかたれた以上、会えなくても仕方がないと思っていた。  彼女にひかれた気持ちに|嘘《うそ》はなかったし、リューの中にはそれでいささかのやましいところもなかった。向こうも同じだろうと、彼はたかをくくっていた。  宿はグリフォンが選んだ一番の高級宿で、|堅《けん》|固《ご》な石づくりの塔のような建物の最上階だった。  安全のために窓も小さく、中は冷えびえとしていて、調度品は高級でもどこか|牢《ろう》|獄《ごく》じみている。  ひとつしかない入り口にも衛兵が立ちならび、もどってきたリューに向かって敬礼した。しかしアルルスの宿と同様に、敬意は本物ではなく、何者だろうといぶかしむような表情を隠さなかった。  階段のところで、リューは宿の下女からおずおずと声をかけられた。茶色の髪をうしろでたばね、白い|頭《ず》|巾《きん》をリボンのように結んだ可愛い娘だ。 「あの……お連れの方に……よろしければ、ご伝言を」  消えいりそうな声で娘は頼んだ。  リューはけげんそうに、彼女を見おろした。 「さっきは急で、お返事できませんでしたけど……あたしはいつでも……あの……待ってますって……」  そうつぶやくと、娘はさっときびすをかえした。  |召《め》し|使《つか》い|頭《がしら》が娘を呼び、こごとを言っていた。  どういうことだろうと思いながら、リューは階段をのぼっていった。  エリアードに熱をあげる女はめずらしくもなかったが、誘いをかけたのは娘のほうではないようだ。  剣と添い寝しているようなグリフォンに、そんな芸当ができるとも思えない。  階段の途中には衛兵たちの詰め所があり、やはり彼の姿をみとめると大げさに敬礼した。  守られているのか、監視されているのかわからなくなって、彼は不快だった。  最上階の部屋には|鍵《かぎ》がかけられていて、リューは持っていた合い鍵であけた。  誰もいないかと思った室内には、|燭台《しょくだい》の明かりがひとつだけともされていた。  それでも中は薄暗く、彼は手近にあった|火《ひ》|皿《ざら》に燭台の炎をうつした。 「いるのか、誰か」  気味が悪くなって、彼は呼びかけた。  奥の間にある寝台で動く影があった。|天《てん》|蓋《がい》に吊りさがった薄幕の中から、半裸の女が飛びだしてきた。  宿の下働きの女のようだ。  散らばった衣類を、女はすばやく身につけた。  女は夕食を運んできた盆をさげ、リューとぶつかるように出ていった。すれちがいざまに、女はすみませんとくりかえしながら、頭をさげた。  リューは怒りにかられて、寝台の薄幕を|剥《は》ぎとった。  予想はついていたとはいえ、エリアードは悪びれた様子もなく、しどけない姿で横たわっていた。 「お早い帰りですね。飲み代がつきたか、酒場が火事にでもなったのですか」  アルルスを出てから変わらない冷ややかな口調に、リューの怒りは急速にさめていった。精神的にまいっていたところに、またあらたに追いうちをかけられたようなものだ。 「……それは|邪《じゃ》|魔《ま》したな」  彼は力なく応じて、薄幕をもとどおりに閉じた。  もう一度、酒場にとってかえそうかと思ったが、そんな気力もなく、自分の寝台に腰をおろした。  エリアードは身じたくをし、そのまま黙って部屋を出ていった。  今度ばかりはめったなことで許すまいと、彼は固く決心していた。  アルルスのナクシットの|館《やかた》で、リューが落とし穴に落ちて、どれほど彼が心配したか。  ところがそのあいだにリューは|女泥棒《おんなどろぼう》と思いをとげ、彼が寿命をちぢめるような思いをしたことなど考えもしないように、よりそって幸せそうに現れたのである。  時がたっても、その光景は煮え湯のように彼の胸を焼いた。  もはや|嫉《しっ》|妬《と》という次元ではなかった。根本的なところで、彼の捧げる忠誠や愛情や、相手の無事を思いやる気持ちは一方通行で、リューには通じないのではないかという絶望に近い。  これまでも似たようなことは幾度とあったが、なしくずしに仲直りするか、丸めこまれてあいまいにすませてきた。  しかしここ三日のエリアードの決意は固く、態度を軟化させなかった。  あとくされのなさそうな女と遊んでも、とくに楽しくはなかったが、そのひとときだけは胸の焼けるような思いを忘れられた。  リューもどこかで、そんな相棒の気持ちがわかっていた。  怒るのも当然だし、見離されないだけましだとも思った。  寝台に横たわっていた姿もむしろ痛々しいものだったし、好きこのんでやっているわけではないことが感じとれた。  彼がアルダリアの女泥棒のことを考えないのは、そんなエリアードの気持ちが伝わってくるせいかもしれなかった。  裏切ったつもりも、悪いことをした意識もなかったが、エリアードをあまり苦しめたくはなかった。  彼にとって一番大事なのは相棒だったし、他の誰もそれに取ってかわることができないのは十分に承知していた。  薄暗い部屋で、リューは少し眠った。  うとうとしていただけだと思っていたが、妙な夢を見た。夢にしてはありありとして、現実にしてはおぼろげな。  青い僧衣をまとった白髪の老人が彼を呼んでいた。長いあいだ、お待ち申しておりましたと、彼の前にかしずいた。  老人の背後には祭壇があり、見覚えのある紋章が刻まれていた。|禿《はげ》|鷹《たか》と|獅《し》|子《し》を組みあわせたリウィウスの青い紋章。  クナの|廃《はい》|墟《きょ》の門にも、似たような紋章が焼きつけられていた。  思いおこしてみれば、あの青い門にたどりついたときから、故郷の地にかかわる|厄《やく》|災《さい》に取りこまれたような気がした。  老人の衣にも同じ紋章は縫いとられていた。僧衣の形も、リウィウスの王宮に出入りしていた聖職者たちのものと同じだ。  リウィウスには国でさだめた聖なる教えがあり、他の宗教をおもてだっては許していなかった。  |白魔術《しろまじゅつ》を系統だてたように、その教えもまた、民間に広がる|素《そ》|朴《ぼく》な信仰から哲学の領域にいたるまで検討し、ひとつにまとめあげたものだ。  リウィウス人は伝統的に、雑多なものを再構成し秩序だてる才にすぐれていた。  聖職につくものは国営の教団で養成され、能力に応じて各地の神殿に配置された。  王宮に常在する|僧《そう》|侶《りょ》はその中でも選びぬかれた高位の者たちで、教育係であり、相談役であり、公序良俗の手本だった。  主だった王宮の儀式は彼らの手によっておこなわれ、位の昇進や国策にも発言力を持っていた。  リューも幼少のころから、教育係の僧侶をつけられ、ひととおりの教えを受けていた。  夢に現れた老人は、そのときの僧侶に似ていた。思慮深く、知識豊かな僧侶に、子供の彼はなついていた。  その僧侶は、彼が十二、三のころに職を辞し、ほどなくして病で死んだはずだ。  浅い夢から目覚めた彼は、いつもの過去にまつわる夢かと思った。  あまり昔の夢は見なくなっていたが、それでもときどきリウィウスで過ごした日々はよみがえってきた。  たいがいは戦場の悪夢だったが、なつかしい記憶もあった。青い僧衣の老人には、郷愁に近いものをおぼえた。  それからまたうとうとしていると、グリフォンが部屋にもどってきた。  彼はいつものように愛剣を|脇《わき》に置き、|肘《ひじ》|掛《か》け|椅《い》|子《す》に腰をおろした。  部屋はほかにもあいているのに、グリフォンは|強《ごう》|引《いん》にふたりと同じ部屋をとった。  エリアードとろくに話ができず、仲直りなどおぼつかないのもそのせいだと、リューの|苛《いら》|立《だ》ちはぶりかえした。 「出発のめどは?」  リューは寝台から起きあがった。  眠っているものと思っていたグリフォンは、驚いて彼のほうを見た。 「明日か、遅くても明後日には船が着く。|漕《こ》ぎ|手《て》も信用できる、ちゃんとした河川用の船だ」 「あんたはいったい何者だ、一介の観相師が船まで調達できるのかい」 「皇帝じきじきの命を受けて動いていると言っただろう。特にあなたがたの護衛に関しては、全権を|委《ゆだ》ねられている」  それほど得意そうでもなく、グリフォンは説明した。 「あなたがた[#「あなたがた」に傍点]か——いつのまにかハルシュ老の宝ではなく、わたしたちに中心が移っていったように思えるが」  リューは|皮《ひ》|肉《にく》った。 「はじめから、わたしの目的はあなたがたにある」  真顔でグリフォンは応じた。  あからさまに言われると、リューはつづける気力をなくした。  宝は、表向きなんの変哲もない|鉛《なまり》の固まりだったので、寝台の|脇《わき》の台にそのまま置いてあった。  アルルスの宿でも、|無《む》|造《ぞう》|作《さ》に放りだしたままでいた。  |下手《へ た》に貴重品として隠しておくより、そうしていたほうが誰も注目しない。せいぜい|不《ぶ》|恰《かっ》|好《こう》な紙置きの重しにしか見えなかった。 「いつまでわたしたちを護衛するつもりだ。宝を皇帝に渡したら、なんと言われようともさっさとセレウコアを出るぞ」  リューは宣言した。  答えようがないふうに、グリフォンは黙っていた。 「それでも護衛するというなら、国境を越えた安全なあたりまで送ってくれ」 「自由な立場にもどりたいと思うのなら、取りまく状況と戦って切りひらくよりほかにはないんだ、リューシディク殿」  いつもの教えさとす口調で、グリフォンは告げた。  慣れてきたので、リューも以前より腹をたてなかった。 「何を目的としているかもわからない狂信者の集団とか」 「目的はわかっている。ナクシットは宗教集団と称しているが、実際は世俗の権力を欲しているのだ。連中はベル・ダウの山からセレウコアの北西部に進出してきているし、各所に点在する分教所の数もあなどれないほど増やしている」 「連中の野心などはどうでもいい。それがどうしてわたしたちにかかわってくるんだ」 「連中の勢力の拡大には、〈月の民〉が|鍵《かぎ》をにぎっているらしいんだ。おそらく、〈月の民〉が最大の障害となる、というたぐいの|啓《けい》|示《じ》があったのだと思われる。啓示とはいっても本物ではなく、上層部の芝居だとも考えられるが」 「けっこうわかってるんじゃないか。あんたはアルルスでも、ろくに説明を加えなかったが」 「無用の心配をされては困ると思ったからだ。今、話したこともまだ、推測の域を出ない」 「橋を壊したのも、連中の|仕《し》|業《わざ》か」 「おそらくはそうだ。雷は目くらましで、実際は|闇《やみ》にまぎれて焼きうちをかけたのだ。セレウコアがここまで動いているから、連中のやることも手がこんできた」  グリフォンは大きな眼の下に疲労の|翳《かげ》りをにじませた。何もかも大づくりなその顔は、ちょっとした表情の変化も芝居がかって見えた。 「なんとしてもわたしたちを|抹《まっ》|殺《さつ》すると?」 「そうだ、とにかく都に入られてはまずいのだろう。陸では衛兵たちに守られて手が出せないゆえ、河の上でともくろんでいるにちがいない。粗末な漁師船ではちょっとした妨害があれば、流れにのまれるのは簡単だ」 「いっそ、死んだことにしたらどうだ。よく似た死体をさがさせて、盛大に葬儀でもすればいい」  |肘《ひじ》をついて寝そべり、リューはおもしろくもなさそうに提案した。 「それも考えたが、無理だ。教団には高位の|黒魔術師《くろまじゅつし》がからんでいる。|偽《にせ》の死体ではごまかされないだろう——いったん仮死状態になってもらうことも考えたが、|蘇《そ》|生《せい》に失敗するかもしれず、やむをえず断念した」  グリフォンは簡単に言った。  リューはますます渋い表情になり、顔をそむけた。     2章 岸辺にひそむ影  サライの大河は荒れる|波《は》|濤《とう》に月光を宿し、|渦《うず》を巻きながら流れていった。  風は強く、いかに先を急いでいる旅人も、この|宵《よい》には船を出す者はいない。追われている罪人ですら。  橋は|残《ざん》|骸《がい》だけとなり、小さな漁師船も手持ちぶさたにつながれているが、岸のあたりだけは陽が沈むとにぎやかになった。  橋に近い岸辺は、なだらかな土手となっている。  身を隠せるくらいの茂みがところどころにあり、寄りそうふたつの影がいくつもひそんでいた。 「……はしたない女だと、お思いにならないで……誘われれば、誰にでもついていくような……」  仕事用の白い|頭《ず》|巾《きん》の上に身を横たえ、茶色の豊かな髪をほどいた娘がささやいた。さきほど宿の階段のところで、リューに伝言を頼んだ下女である。 「どちらかというと、はしたないほうが好きだな。身持ちの堅い女は、あとがたいへんそうだ」  白い上着のあわせめに手を入れ、エリアードはひとりごとのように応じた。  娘は|痩《や》せて小柄だったが、胸だけは|熟《う》れた果実のように見事だった。 「お泊まりのお客の方と……その、こんなふうになるなんて……誓って初めてなんですのよ。お誘いはよくあるんですけれど、仕事は大切にしてますから……」  |吐《と》|息《いき》をつきながら、娘はまだ言いわけをつづけていた。  宿の階段をおりてきたエリアードを見つけ、仕事を途中で放りだしたまま追いかけてきたことに罪悪感をいだいているようだ。沈んだ様子の彼を、|強《ごう》|引《いん》に|逢《あ》い|引《び》きの岸辺へ連れてきたことにも。 「黙って——考えるのはあとにしよう。ふつう後悔はあとでするものだ」  そう言いつつも、エリアードは半分うわの空だった。  片手で娘の身体をさぐりながら、部屋に押しかけてきたあまり若くはない下女の、ふくよかすぎた感触と比べていた。  ふたりとも、彼がひとことふたこと誘いをかけたら、驚くほど積極的に応じてきた。簡単すぎて|拍子抜《ひょうしぬ》けするくらいに。  娘の上に体重をかけるときには、冷戦中の相棒のことを考えた。相棒の節操のない女好きは、とても彼には理解できなかった。  少しは相棒を|真《ま》|似《ね》てみようと思い、目についたあとくされのなさそうな女に声をかけてみたのだが、とくに楽しくはなかった。ひとときだけ、快楽の波がすべての思考を押しながすだけだ。  本質的にどんな女にも興味がもてないのではないかと、十代のころから彼は思っていた。  それでもごくわずか、恋に似た思いをいだいたことのある娘たちがいたが、そのほかはまったくといっていいほど関心を持てなかった。美しい野性の踊り子にも、目の前の軽薄そうだが可愛らしい娘にも。  けれど彼の相棒は実に|惚《ほ》れっぽく、あまり長く関心がつづいたためしはないが、そのときどきは熱中している。  |女泥棒《おんなどろぼう》とかわしていた幸せそうな視線は、思い出すたびに彼を苦しめていた。  束縛しあわず、気にいった相手があれば気楽につきあおう、と相棒はいつも言っていた。  彼もそれにならい、|真面目《ま じ め》にいろいろ思い悩むのをやめて、つかのまの|愉《たの》しみを|摘《つ》みとろうとしてみたが、むなしくてたまらなかった。  こんな気持ちで接しては、いくらゆきずりの女とはいえ失礼ではないかと彼は思ったが、身体の下の娘は|陶《とう》|酔《すい》しきったふうにあえいでいた。  彼が腰を進めると、娘は指を口にくわえ、高まる声をおしころした。  早く終わらせてしまおうと、彼は動きを早めた。  彼は、つれない相棒の面影を思いうかべる。相手が誰であっても、いつしかそうしていた。身体つきすら似ても似つかない小柄な女であっても。  岸の茂みには、ほかにいくつもの影があり、からみあっている者たちだけでなく、様子をうかがっている者もいた。  宿を出たエリアードと娘をつけてきた護衛の兵も、そのひとりだ。  これではのぞきをしているようだとうしろめたく思いながら、まだ若い兵は、草のあいだから見えかくれする刺激的な光景をながめていた。  アルルスから護衛としてついて来た彼は、いかなる場合にも金と銀のふたり組から目を離さないように厳命されていた。  つい職務を忘れ、見入っていた衛兵は、背後から肩をたたかれて飛びあがった。 「クファ、あたしよ、おぼえてる?」  ふりかえった衛兵は目を丸くした。  アルルスにいた顔なじみの女泥棒が、親しげにほほえんでいた。  白金のちぢれた髪にふちどられた黒っぽい引きしまった顔が、|薄《うす》|闇《やみ》にも見わけられる。 「なんで、おまえさんがこんなところにいるんだ」  衛兵のクファは女泥棒の腕をつかみ、影のうごめいている茂みから離れた。  見張りは命じられたことだが、近くでのぞき見していたことがばれては、罰をくらいかねなかった。 「ちょいとしたやぼ用[#「やぼ用」に傍点]で、ここまで足をのばしたのよ」  イェシルは薄緑のきつい眼を光らせた。  さきほどからの興奮もあり、クファはどぎまぎした。  彼はアルルスの北の丘の警備をしていたとき、盗みに入ったイェシルを何度かつかまえそこねていた。  それというのも、|精《せい》|悍《かん》な|女泥棒《おんなどろぼう》に|惚《ほ》れた彼が、いいように|翻《ほん》|弄《ろう》されたせいだ。  下町でイェシルを見かけた彼は、つかまえようとするどころか、追いかけて|口《く》|説《ど》いてばかりいた。いつもうまくかわされて、成功したためしはないが。 「あんたこそ、どうしてこんなところに隠れてるの」  岸辺を見おろせる大きな木のところで、イェシルは問いかけた。並んで立つと、衛兵は彼女より頭半分ほど背が低かった。 「護衛を命じられて、あとをついてきたら、ここに来たんだ。人が楽しんでいるところなんか、好きで見るものかい」  言いわけがましく、クファはつぶやく。茂みから出てくる人影はないから、連中はまだあそこにいるのだろうと思いながら。 「あんたもたいへんなのね——でも、セレウコアの正規の衛兵が護衛しなきゃならないほど偉い人なの。宿の召し使い女を茂みに連れこむなんて、位の高いまともな人のやることじゃないと思うけど」  やさしく労をねぎらうように、イェシルは言った。 「そうなんだ、俺たちのあいだでも不平があがってる。セレウコアの貴族が旅するときだって、こんな大がかりな護衛はしないぞって——どう見たって放浪者のようだし、一方は安酒場に入りがたってるし、俺のまかされたもう一方は女とよろしくやってばかりいるしな」  |嫉《ねた》みがこみあげてきて、クファの口調は|辛《しん》|辣《らつ》になる。  彼が必死に口説いてもうまくいったのはごくわずかだというのに、あの銀の髪のやつは目くばせしただけで女が寄ってくる。  ああいった女たらしの美男子はきらいだと、彼はあらためて思った。 「実はね、あたし、あの連中の正体を知ってるのよ」  イェシルは声を低めた。 「本当かい、そいつは」 「でも、はっきりしてないんだ、そうじゃないかって思うくらいで」 「なあ、教えてくれよ、|賭《か》けをしてる仲間もいるんだ——北方のどこかの国の王子だとか、タウの皇帝が|寵愛《ちょうあい》していた|蒼《そう》|白《はく》|人《じん》だとか、氷の大陸に住む|雪《せつ》|人《じん》の|末《まつ》|裔《えい》だとか、いろいろとてつもない説が飛びかってるんだが、どれも決め手がなくてな」  衛兵はイェシルにつめよった。薄暗がりに乗じて、さりげなく彼女の腕や肩にさわるのも忘れてない。 「——|詐《さ》|欺《ぎ》|師《し》よ、あいつら、たぶん——故郷にいたころ、見かけたことがあるの。他人の空似かもしれないけれど」  自信なさそうに、イェシルは告げた。 「さ、詐欺師だって——じゃあ、だまされてるのか、俺たちは」  とんでもないというふうに衛兵は首をふった。セレウコアのこれだけの兵を動員させる詐欺師というのは、とても彼の頭では考えられなかった。 「アルダリアにやってきて、この地には黄金が埋まってるって族長たちをたきつけた詐欺師に、どこか似てるというだけよ。証拠があるわけじゃないわ」  そんな詐欺師がいたことは事実だが、似ているというのはイェシルの|嘘《うそ》だった。  けれど単純な衛兵は口をぽかんとあけ、なかば信じかけているようだ。 「そういやあ、とても身分がありそうに見えないもんな。育ちも悪そうだし、ましなのはちょいとふめる面だけだ——われらの大将は優秀なお方だが、浮き世ばなれしてるのは確かだからな。案外、ころっとだまされることだってあるかもな」  クファはしきりとぶつぶつくりかえしていた。 「確かじゃないから、言いふらさないでよ」  イェシルは口どめしたが、それはかえって|吹聴《ふいちょう》しろと|焚《た》きつけるようなものだった。 「すげえ話を聞いちまった、俺——黙っていられるかな。もし本物の詐欺師だったら、黙ってるのやばいし」  自問自答している衛兵に、イェシルは笑みを浮かべた。第一段階はまずこのあたりでいいだろうと。 「じゃあ、まだやることがあるから、またね」  そう告げると同時に、イェシルは|宵《よい》|闇《やみ》に消えた。 「おいっ、待てよ」  衛兵が引きとめるまもなく、彼女の姿は河ぞいの木々にまぎれてわからなくなった。  エリアードと宿の召し使いの娘は河岸をのぼってきた。  彼らを見張っていた衛兵はクファひとりではなく、遠まきながら何人かいた。  不快な護衛がまといついてくることに、エリアードはうすうす感づいていた。アルルスを出るころから、彼と相棒は厳重な警戒のもとにおかれていた。  ナクシット教団のやり方を考えれば仕方もないかと、彼はかろうじて|苛《いら》|立《だ》ちを静めていた。  しかしどちらかというと、彼らふたりがセレウコアの|虜囚《りょしゅう》のようだった。  |牢《ろう》|獄《ごく》めいた石造りの宿が見えかけたところで、彼は娘と別れた。いっしょにいるところを|召《め》し|使《つか》い|頭《がしら》にでも見とがめられたら、娘は職を失いかねない。  娘のほうもそっと召し使い用の|別《べつ》|棟《むね》の宿舎にもどるつもりで、裏手にまわりこんだ。  |酔客《すいきゃく》や衛兵、家路に急ぐ露店商たちが行きかう通りを、娘はうつむきかげんに急いだ。  宿の裏口につづく細い道に入ったところで、娘は口をふさがれ、はがいじめにされた。  抵抗もむなしく、悲鳴もあげられないうちに、娘は真っ暗な林まで引きずられていった。 「|下手《へ た》に動くと、|怪《け》|我《が》するよ」  娘の丸い|頬《ほお》に短剣の刃をあて、イェシルは低く告げた。  そのあいだにもうひとりの小柄な影が現れ、召し使い娘の両手を背後にまわして縛りあげた。  |怯《おび》えてはいたが、相手がまだ若い女だとわかり、娘はほっとした。 「あんたが客と岸辺で何をしてたか、みんな知ってるよ。宿の主人に言いつけられたくなかったら、素直に答えるんだ」  娘は神妙にうなずいた。傷をつけられるのも、言いつけられるのも、どちらにしてもまずかった。  イェシルはその|尻《しり》|軽《がる》の召し使い娘から、泊まり客の部屋の位置と、警備の状況を残らず聞き出した。  アルダリアの|女泥棒《おんなどろぼう》に|恨《うら》まれ、追いかけてこられているとも知らず、リューは部屋でひとり、あいかわらず|鬱《うつ》|々《うつ》とすごしていた。  グリフォンは宿の簡素な食事が口にあわないと、近くにある行きつけの店までわざわざ出かけていった。  高級な蒸留酒が部屋まで運ばれてきたが、リューは手をつけなかった。最近はいいかげんに面倒で、グリフォンの何くれとない援助を|拒《こば》む気力もなかったが。  全滅した隊商との約束をはたしたら、少し路銀を|稼《かせ》ごうかと彼は考えはじめていた。  気ままな放浪者でいるのも、最低限の資金がないことにはみじめなものだ。  あまり金銭的な欲望のない彼だったが、今度という今度はみじめさが身にしみていた。  いろいろかさなって、さしもの彼も落ちこんでいた。  眠ることもできず、ほかに何をする気にもならず、ただ早く時間がすぎないかと|憂《ゆう》|鬱《うつ》をもてあましていた。  エリアードがもどってきたのは、ちょうどそんなころだった。 「——気分でも悪いのですか」  うつむきかげんに座りこんでいる相棒を見つめ、エリアードは尋ねた。その口調は前ほど冷ややかではなく、どこか気づかうようなところがあった。  かわいた砂に垂らされた水滴に似て、そんなわずかな優しみは、リューの沈んだ心にしみわたっていった。  彼はまるで泣いていたように、目をわずかにしばたいた。  エリアードの注意深い|眼《まな》|差《ざ》しは、相棒のかいま見せた気弱さを読みとった。長いつきあいだから、ちょっとした表情の変化でも気持ちの動きは伝わってくる。  まいったなと、エリアードは思った。  対抗してこころみたつかのまの情事はむなしいばかりで、|柄《がら》にもない気弱な相棒の顔に出会うと、固かったはずの決心がぐらついた。 「いい酒がある。まだ手をつけてないんですね」  軽く首をふり、エリアードは蒸留酒の|瓶《びん》に手をのばした。 「グリフォンのやつだ。飲んでもまずい」  いつものようにリューは威勢よく言ったが、語尾が心なしか小さくなった。  まともにエリアードが口をきいてくれただけで、彼は胸のあたりがあたたかくなるのを感じた。何を大げさなと、自分でもあきれていたが。 「出世払いにしておけばいいじゃないですか。今さら借りがひとつ増えたところで同じですよ」  |琥《こ》|珀《はく》|色《いろ》の酒を、エリアードはめずらしい|硝子《ガ ラ ス》の|杯《さかずき》にそそいだ。東方から取りよせた高価なものだ。 「いつもはとめるのに、なぜ今夜にかぎって酒を勧めるんだ」 「おとなしすぎると心配になったからですよ」  ひとくち味見をして、エリアードは透明な杯を手わたした。  リューは片手でそれを受けとり、もう一方の手で相棒の腕を引きよせた。  観念したように、エリアードは隣に座った。 「まだ心配してくれるのかい、見離されたかと悲観していたんだが」 「たとえ何をしたとしても、あなたを見離すようなことはないと言ったでしょう——本当のことをいえば、今度こそはめったなことで許すまいとは思ってましたが」  ためらっていたが、気持ちに負けて、エリアードは相棒の|頬《ほお》に|唇《くちびる》を寄せた。軽くふれて、励ますように。  リューは申しわけなさそうに、ただされるがままでいた。  そもそもこの一連の面倒ごとに巻きこまれるはめになったのは、彼の|軽《けい》|率《そつ》さからだった。  相棒は文句を言いながらも、常に彼を案じ、ときにはあきれながらも見守っていてくれた。  |女泥棒《おんなどろぼう》とのことでは苦しめたはずなのに、今もこうして沈んでいると力づけてくれる。 「情けないな、固い決心も、三日ともたなかった——今度は相当、固かったのですけどね」  |自嘲《じちょう》するようにエリアードはつぶやく。酒を味見して濡れた彼の唇には、あたたかな笑みがあった。 「わたしの禁酒の決意と似ているな。深酒でひどいめにあうたびに、決心しているんだが」  照れかくしに、リューは手にした|杯《さかずき》をいっきにあけようとした。  けれどエリアードは途中で、そのかたむいた杯をとめた。 「元気づけるためには量が多すぎます。半分はわたしに残してください」  めったにないことだったが、リューは素直に杯をもどした。  半分も残っていない|琥《こ》|珀《はく》の液体を、エリアードはかわりに飲みほした。  酒は度が強く、あまり飲みなれていない彼はすぐに身体が熱くなった。 「——あなたを少し嫌いになれたらと、何度も思うな。今度ばかりはそう簡単に丸めこまれてなるものかと、決心するときには」  くやしそうに、エリアードは相棒をにらんだ。 「丸めこむつもりなどない。おまえが許してくれるのを待つつもりだった」 「でも、あなたの気落ちした様子を見て、わたしの怒りもまたたくまに骨抜きだ——負けましたよ。どうしようもなくあなたを愛してるらしい、少しはさめてくれないかと願うほどに」  |両頬《りょうほほ》を赤くして、エリアードは目をとじ、寝台のへりにもたれかかった。急速に酔いがまわったのか、頭がくらくらした。 「だいじょうぶか、こいつはかなり強そうだからな」  高級そうな|酒《さか》|瓶《びん》を、リューはあらためて見た。  彼にはこのくらいなら水を飲んだのと変わらなかったが、相棒はそうはいかないようだ。 「気楽にやろうとつとめても、誰と寝たって思いうかぶのはあなたのことばかりだ。お互い束縛しあわず、気にいった相手とつきあうなんて、とてもできやしない——不公平だな、あなたは十分、楽しんでるのに」  |心《ここ》|地《ち》よい酔いにまかせ、エリアードはうるんだ眼でうったえた。  リューは相棒の肩を抱き、熱い|額《ひたい》に手をやった。 「|女泥棒《おんなどろぼう》と仲むつまじくしていたとき、少しはわたしのことを考えましたか。まったく考えなかったでしょう——あなたが落とし穴の底で死んでるかもしれないと、それこそ居ても立ってもいられないほど、心配していたと想像してもみなかったでしょう」 「そんなことはない、うしろめたく思っていた」  銀の髪を|撫《な》でて、リューは優しくなだめた。 「うしろめたく[#「うしろめたく」に傍点]、ね——なんだかわたしは、|嫉《しっ》|妬《と》|深《ぶか》い目つけ役のようだ。別にわたしだって、あなたを無理に束縛しようとは思わない。ただわたしを、同じように平気だと思わないでほしいんだ」 「思ってないと前にも言っただろう」 「じゃあ、わたしが苦しむのを承知のうえでやってるのですか。本気で嫉妬深いわたしが|邪《じゃ》|魔《ま》なら、そう言ってください。あの|女泥棒《おんなどろぼう》に乗りかえたいなら——」 「からみ|上戸《じょうご》だったのか、知らなかったな」  ぐったりと体重をあずけてきた相棒を、リューはあらためて見つめた。  酔ったうえでの非難だったが、そのひとことひとことは彼の胸を刺した。 「おまえに代わる者などいないよ、どんなに心ひかれた女でも——男は問題外だ、男はまったくだめだからな——本来は女好きであるはずの性分をはるかにこえて、まわりの奇異の目にもめげず、おまえはかけがえのない相棒で、たったひとりの恋人だよ」  調子よく、リューはささやいた。うまくこの|台詞《せ り ふ》がきまって、|機《き》|嫌《げん》を直してくれないかと期待しながら。  しかしエリアードは彼にもたれたまま、すでになかば眠りこんでいた。  彼のとっておきの言葉など、聞いてなかったのはあきらかである。  リューは相棒を寝台に寝かせた。  いくら酒に弱いといっても、こんな急に眠りこむのは妙だと思ったとたんに、彼のほうにも眠気がおそってきた。 「——エリー、起きろ、こいつは何かの……」  相棒をゆすり起こそうとしたが、彼の身体はその上へ折りかさなるように倒れた。  酒の中に、何か入っていたらしい。眠り草のたぐいか、それに類するものが。  |格《こう》|子《し》のはまった窓の向こうで、鳥のはばたきのような音がした。彼らの様子を外からうかがっていたようだ。  それに気づいたときにはすでに、リューも眠りの網にとらわれていた。     3章 炎の|罠《わな》  イェシルとアヤが宿に入りこんだのは、それからしばらくしてである。  外の衛兵の目をなんとかくらまし、勤務を交替する召し使い女のふりをしてもぐりこんだ。  |鍵《かぎ》|束《たば》のある位置とか、衛兵のいる場所は聞きだしていた。召し使いたちが寝静まるまで隠れていて、夜中に最上階の部屋へしのびこむ予定だった。  しかし宿の内部はすでに静まりかえっていて、召し使いたちは|厨房《ちゅうぼう》の|椅《い》|子《す》や、踊り場の荷物置きの上で居眠りしていた。  階段の途中にある衛兵の詰め所も同じで、木の卓に高級酒の|瓶《びん》を置いたまま、うつらうつらしている。  グリフォンの差し入れと称して運びこまれた高級酒は、宿の召し使いや衛兵たちにも惜しげなくふるまわれ、みな気持ちよく寝入ってしまっていた。  さしたる障害もなく、イェシルとアヤは最上階まで行きついた。  厚い木の|扉《とびら》の鍵も、寝ぼけている衛兵から取りあげ、簡単にあけることができた。  変だとは思ったが、こんな絶好の機会をのがす手はなかった。  最上階にいる客たちも、眠っているようだった。  寝具の替えをかかえ、召し使いのふりをして、ふたりは中に入った。  リューは銀髪の相棒とともに、奥の寝台で正体なく眠りこんでいた。  近くの卓にはやはり酒の瓶があけてあり、イェシルはうすうすそれがあやしいと感づいた。  イェシルは、三日のあいだ離れていた恋人を見つめた。冷静な|泥《どろ》|棒《ぼう》に徹しようと思っても、なかなか目をそらせなかった。  |金褐色《きんかっしょく》の髪は|額《ひたい》にかかり、落とし穴の底で気を失っていたときの彼をいやおうなく思い出させた。 「似たようなことをたくらんでる連中が他にもいたのかしら」  ナクシットの分教所での出来事を思い出し、イェシルは少し心配になった。  けれどすぐに怒りがよみがえってきて、そんな思いをふりはらった。 「急ごう、同業者がやってきそうだ」  イェシルとアヤは手分けして、|家《や》|捜《さが》しをはじめた。アルルスでもふたりで何度か成功をおさめた泥棒|稼業《かぎょう》の手順である。  宝がどんなものなのかイェシルも知らなかったが、一見すると宝には見えないものというヒントは落とし穴の底でもらっていた。  寝台の|脇《わき》の台に放りだされている|鉛《なまり》の固まりは、イェシルの視界にときどき入ってきた。  それが宝とは思わなかったが、何か気にかかるものを感じた。  たんねんに探したが、宝らしいものや、宝を隠していそうな場所は見つからなかった。  隠し|戸《と》|棚《だな》でもあるのだろうかとあたりを見まわしたときも、こぶし大の|鉛《なまり》は目に入ってきた。  壁を調べるのはアヤにまかせ、イェシルは鉛の固まりを手に取った。  彼女がふれると同時に、それは内側からかすかに発光したように感じた。目に見えるほどの輝きではなく、手のひらから伝わってくるようなごく微量の光だ。  気味悪くなってイェシルは鉛をもとにもどそうとした。けれどまた手をのばし、迷った末、上着の隠しに放りこんだ。 「——燃えてる、イェシル、宿が燃えてるよ!」  |格《こう》|子《し》の窓に手をかけて、アヤが叫んだ。  イェシルもあわてて駆けよった。  建物の下方から、火炎の|蔓《つる》がすさまじい勢いで|這《は》いあがってくるところだ。  石造りの|堅《けん》|固《ご》な建物が、まるで紙の塔のように燃えていた。  宿のまわりには人が集まりつつあったが、火の勢いがひどくて近寄ることもできない様子だ。 「早く逃げないと、やばいよ」 「もうとても、下からは出られないわ、壁を伝って降りるのも無理——どうしたらいいんだろう」  |泥《どろ》|棒《ぼう》どころではなく、イェシルとアヤは青ざめた。  酒をくばって眠らせたのは、盗みに入る目的ではなく、宿ごと丸焼きにしてしまう意図があったらしい。  そうする内にも、炎のはぜる音と黒い煙は最上階にもとどきはじめた。 「階段はまだ上にもあったわね、屋上があったら……」  イェシルはつぶやき、寝台で何も気づかず眠っているふたりに目をやった。 「屋上なんて、だめだよ、高すぎて降りられない」  気弱になったアヤは首を激しくふった。 「ここで煙にまかれるよりはましよ、行ってみよう」  アヤの手を引きかけて、イェシルはまた迷った。  屋上にのがれても助かる保証はないが、ここで眠っていては万にひとつも生きのびる可能性はないだろう。  あとわずかで煙が部屋に充満し、目覚めることもなく彼らは死ぬにちがいない。 「いちおう、あいつらも起こしてやろうよ、化けて出られたらいやだもの」  そんな思いを読みとったアヤは優しく言った。 「そうね、そうよね——別に死んでほしいと思うほど、|恨《うら》んでるわけじゃないものね」  イェシルはアヤの両手を握りしめた。  身体を|拭《ふ》くために用意してある|桶《おけ》の水を、イェシルはふたりの上からぶちまけた。炎よけにもなり、一石二鳥だった。  そのあいだにアヤは、寝台のふたりを交互にゆりおこした。  火事だ、|洪《こう》|水《ずい》だ、天変地異だ、と思いつくままに耳もとで叫び、寝台のへりをたたきながら。  二杯めの水を浴びて、ふたりはやっと薄目をあけた。  炎の先は|格《こう》|子《し》の窓から見えるくらいになり、煙で部屋がくもりはじめていた。  ぼんやりしていた彼らもすぐ異常に気づいた。 「なんだ、これは……」  リューはつぶやき、目の前の|女泥棒《おんなどろぼう》を|幻《まぼろし》ではないかと見つめていた。 「屋上に逃げるのよ、ぐずぐずしてると置いていくわよ」  きつい眼を吊りあげ、イェシルは|鋭《するど》く言った。  リューはよく事情がのみこめなかったが、まだぐったりしているエリアードに肩を貸して立ちあがらせた。  火事で、ここが危険であることはまちがいなさそうだ。  彼らが歩けそうなのを確かめ、イェシルはアヤの手をとって部屋を飛びだした。  煙で廊下はもう真っ黒だった。  壁は高熱を発している。  階段はさらに上へつづき、小さな窓のついた木戸で行きどまりになった。  木戸には|鍵《かぎ》がかかっている。  煙は階段の下方からもうもうと立ちのぼり、衛兵の詰め所も、他の|扉《とびら》も、すでに何ひとつ見わけられなかった。  イェシルとリューが力をあわせて押しあげると、木戸は壊れて|蝶番《ちょうつがい》ごとはずれた。  彼らは|咳《せ》きこみながら、屋上に躍りでた。  新鮮な空気と、いやに大きく見える金色の月が彼らを迎えた。  木戸でもとのように|蓋《ふた》をすると、下からの煙はなんとか防ぐことができた。  けれど、炎が上までとどくのは時間の問題だ。足の下の石もあつく熱せられ、鉄板の上で焼かれていく感じだ。  石造りのおかげで、すぐに下階から焼けおちないのが救いといえば救いだった。  炎で下は見おろせないが、大勢の人々がさわいでいた。  周囲にはほかに高い建物はなく、ななめ向こうに黒く横たわるサライの河が見わたせた。 「あの河の水があればな——あとは雨でも降れば」  暗がりの光景に目をこらし、リューはつぶやいた。  ここまでくれば彼も状況を理解した。  ナクシット教団の|仕《し》|業《わざ》かどうかはわからないが、彼らを|亡《な》きものにしようというたくらみが見事に成功しつつあるのだ。酒で眠らせ、宿ごと彼らを焼き殺そうという。  エリアードはまだ完全に目覚めてなかった。  このまま炎にまかれるのなら起こさずにおこうと、リューは片腕でふらつく相棒を支えていた。 「死が少し先のばしになっただけかもしれないが、救ってくれた礼を言うよ」  横を向いたままのイェシルに、彼は言葉をかけた。 「これで負い目はないわね、いろいろほかにわけがあったにしろ、アルルスでは救ってもらったから」  ふりむかず、イェシルは応じた。  かわりにアヤが彼をにらみつけた。  そこにいたってやっと彼は、突然現れたイェシルがどうやら自分を|恨《うら》んでいるらしいことに気づいた。 「このまま死んでも悔いのないように聞いておこう——いったいどうしてこの河岸に来たんだい、それもわたしたちが泊まっている宿に」  リューは静かに問いかけた。  炎が近づいて、屋上の周囲がほんのり明るくなっていた。 「本業を思い出したのよ、それで追ってきたの——火事にあったのは偶然。運が悪かったのね、見捨てて逃げればよかったわ」  そっけなくイェシルは言ったが、語尾はふるえていた。 「わたしにしてみれば、運がよかったわけだな。いつものように悪運が強いということか」  部屋で眠っていたら、今ごろは死んでいただろうと思い、リューはつぶやいた。  下の明るさで相対的に暗くなったような空を、彼は見上げた。一方の月はなかば隠れ、もう一方はまるで見えなかった。 「なぜ——なぜ、黙って行ってしまったの、本当のことを教えて、|最《さい》|期《ご》だから、本当のことを」  こらえきれなくなり、イェシルは彼のほうを向いた。 「まだ絶望するのは早い、最期の言葉もとっておくべきだ」  驚いたようにリューは応じた。口もとには安心させるような笑みがあった。 「あたしを軽く見て、いっときの遊び相手にしたのなら、すぐにでもここから突きおとしてやるわ。最期の言葉を出しおしみしないほうがいいわよ」  おどすように、イェシルは彼の首に手をあてた。  片手で相棒を支えている彼は抵抗しなかった。 「別れを告げるひまもなかったのは、とどまるのは危険だとまわりからせかされたからだ。伝言を頼もうにも、宿の連中はみな、わたしたちをうさんくさく見ていたから、無理だった」 「それだけ——あたしへの伝言は、別れの言葉だけ?」 「ほかに何を伝えることがある。また会いたい思いはあっても、まずは無理だとあのときは思えた。未練がましい言葉を残しても仕方がない」  炎は丸い屋上の周囲から赤い手をのばしてきた。足の下は|火傷《や け ど》しそうに熱い。 「名前を——本当の名前すら、あたしには教えてくれなかったでしょう」  首にかけていたイェシルの手は、あいているほうの彼の肩をつかんだ。彼女の吊りあがった眼の中では、|恨《うら》みと|慕《した》わしさが戦っていた。 「名前は教えただろう、|嘘《うそ》は言ってない」 「でも、助けに現れたあなたの連れが違う名で呼んでたわ、何か長い名前で」 「あれは昔の名だ。もう呼ばないでくれと頼んでいるのに、いやがらせのように呼ぶんだ」 「どんな名前、それが本当の名なのでしょう」 「リューシディク——呼ばないでくれよ、いやがらせでなければ」 「安心して、呼ぶ機会はもうないみたい」  もうだめだと観念したイェシルは、恨みがましい気持ちをいっとき追いやり、彼の肩にもたれた。  エリアードも相変わらず|半《はん》|覚《かく》|醒《せい》の状態で、支えられて立っているのがやっとのように、その反対側からもたれかかってくる。  こいつは両手に花だと、リューは|能《のう》|天《てん》|気《き》に思ったが、局面を考えて表情を引きしめた。  彼はいつものごとく、ここで焼け死ぬとは考えてなかった。クナの|廃《はい》|墟《きょ》の近くで、水もなく迷っていたときと同じように。  あのときもちょうど、炎天下のもとで絶望しかけていた。今も死にいたる熱気が、彼らを包みこもうとしている。  今までに幾度も危機はあったのに、なぜクナのときばかりを連想するのだろうとリューは不思議に思った。  すぐに彼は|合《が》|点《てん》がいった。湿気の到来を予告する空気と、遠くの空の|轟《とどろ》きがあのときと同じように感じとれたからだ。 「——雨が降る」  リューはつぶやいた。 「なんですって、雨……?」 「こうなったら時間との戦いだ、雨が降るまで持ちこたえるんだ」  |女泥棒《おんなどろぼう》とその子分を交互に見て、彼は冷静に告げた。 「雨だなんて、信じられない、めったに降らないのに」 「東の荒れ地よりはめずらしくないだろう——信用してくれ、わたしには|雨《あま》|乞《ご》い|師《し》の素質があるようだ」  耳を澄ませてみれば、空の嶋る音は聞きとれるようになった。これまで気がつかなかったのは、炎のぱちぱちいう音にまぎれていたからだ。  屋上の中央に固まって立ち、彼らは炎と煙に耐えた。  暗い空ですら煙で見えなくなりかけたころ、最初の雨のひとしずくが落ちてきた。  河の向こうで、|稲光《いなびかり》がひらめいた。  河に架かる橋を落としたのも同じような稲光だったが、そのときには雨をともなってなかった。 「本当に降ってきたわ、本物の雨——」  奇跡を見るように、女泥棒はリューを見つめた。  アヤも見なおしたような視線を向ける。  べつに彼が雨を呼びよせたわけではなかったが、彼女たちにはそう感じられたようだ。  ぽつぽつと降ってきた雨は、すぐどしゃぶりになった。煙はかき消され、炎の赤みはまたたくまに小さくなっていった。 「雨……雨がどうして」  やっと目が覚めた様子のエリアードが顔をあげた。上を向くと、髪からしたたる雨が目に入ってきた。 「ここは外なんですか、部屋で寝ていたはずでは……」  焼け死にかけたことも彼の記憶にはなく、ただ雨の降る屋外に出てきたとしか思えなかった。 「|呑《のん》|気《き》なものだな、まだ酔っぱらってるのか」  おもしろそうに、リューは相棒の肩を抱いた。いつもは彼のほうが非難の|的《まと》となっている深酒を、今度は反対にからかってやれると思いながら。 「ああ、すみません、|醜態《しゅうたい》をお見せして——あんなに強い酒をいきなり飲んだことがなかったから。ずっと食事が|咽喉《の ど》を通らなかったせいもありますし」  恥ずかしそうにエリアードは小声で言った。  その様子を見て、リューはいっとき考えた楽しいたくらみを放棄することにした。 「あの酒には何か入っていた。おまえが眠りこんだのはそいつのせいだ。酔っばらっていたわけじゃない」  優しくリューは、すぐ近くにある銀の眼をのぞきこんだ。  エリアードも意識を取りもどしてから、相棒の姿しか眼に入ってない。  激しく降りそそぐ雨は、クナの|廃《はい》|墟《きょ》で命拾いして喜びあった記憶と重なった。 「何かって、どういうことですか」  まだけげんそうな相棒に、リューはそばに立っているふたつの人影を示した。  イェシルとアヤは雨の幕の向こうから、|茫《ぼう》|然《ぜん》とふたりをながめていた。 「彼女たちが命の恩人だ、そしてこの雨も」  アルルスで別れたはずの|女泥棒《おんなどろぼう》がいるのに、エリアードは驚いた。  リューは雨音に負けないくらいの声で、わかっているかぎりのいきさつを説明した。まだふらついている相棒を片腕で抱くように支えながら。  雨が降り、助かったとわかってからずっと、イェシルは彼らふたりを見つめていた。  最初はなんだか目が離せないだけだったが、次第に黒い雨雲のような思いが胸の底からわきあがってきた。  まるで離れていた恋人どうしのように、彼らはすぐ近くで見つめあい、|唇《くちびる》をふれあわせんばかりにささやきあっている。  実際にイェシルたちが見ていなければ、|接《せっ》|吻《ぷん》のひとつでもしそうに見えた。  アルルスの高級宿に入りこんだときの光景が、イェシルの中によみがえった。  リューは隣に寝ている誰かを|愛《あい》|撫《ぶ》し、いとおしそうに口づけしていた。  なぐさみに呼んだ商売女ではないかと思っていたが、実際は女ではなく、この銀髪の|美《び》|貌《ぼう》の青年ではないかと初めて思いあたった。  |傭《よう》|兵《へい》をしていたころに配属された隊には、ときどきそんな組みあわせがいた。けれどそれはほとんど女気のない遠征の期間をまぎらすためだけのものだと、彼女は思っていた。  それにリューは見たところも、話に聞いている範囲でも女好きのようだったし、銀髪の相棒のほうも宿の召し使い女とよろしくやっていたではないか。  イェシルは混乱したが、直観的にまちがいないと思っていた。  火が消えた宿にはすばやく足場が組まれ、|梯《はし》|子《ご》がつながれた。  屋上にいた彼らも、下で作業する衛兵たちに無事であることを伝えた。  雨がやみ、もとのように雲のあいまから月が顔を出すころには、梯子が屋上にもとどいた。  まだしっかりと支えられていない梯子をのぼって現れたのは、|憔悴《しょうすい》しきったグリフォンだった。  彼は顔を|煤《すす》だらけにし、元気そうな彼らの前でひざまずいた。 「——申しわけない、すべてわたしの失策だ、なんとおわびしていいか……」  グリフォンは絶句し、広い両肩をふるわせた。 「無事だからいいさ。別にあんたのせいでもないし」  リューはゆっくりと彼に歩みよった。 「かたじけない言葉だ。本当は優しい人なんだな、あなたは」 「そんなことはない、あんたがこの件を負い目に思ってくれるなら|都《つ》|合《ごう》がいいだけだ」  うしろにいる者たちには聞こえないように、リューは近づいて声を低めた。 「どういうことだろうか」  グリフォンは垂れていた頭をあげた。 「まずは簡単なことだ。今夜はどこに仮の宿をとるにしても、あんたとは別の部屋にしてほしいんだ、相棒とふたりきりのね」  まだ|悲《ひ》|壮《そう》な顔つきのグリフォンに、リューは笑いかけた。     4章 財宝狂詩曲  焼けた屋内から煙を追いだし、熱をさましてすぐに、グリフォンは衛兵とともに中へ踏みこんだ。  救出したふたりから話を聞いたかぎりでは、隊商の運んでいた宝はまだ最上階の部屋にあるはずだった。なかば眠っている状態で命からがら部屋を脱出した彼らは、宝のことまで頭がまわらず、そのままにしてきたという。  グリフォンはそれほど心配してなかった。  まずはふたりが無事であれば、宝のほうは火事ぐらいで|損《そこ》なわれるものではないと、彼は考えていた。  石造りの宿がこれほど簡単に燃えあがったのは、外壁に油がぶちまけられていたせいである。  失策だとみずから認めていたように、グリフォンの油断にちがいなかった。  衛兵の数を増やし、主要なところに配置したので、まずは陸にいれば大丈夫だと、彼は警備を部下たちにまかせきりにしていた。  宿の内部は|煤《すす》と灰で真っ黒だったが、かろうじて原型はとどめていた。  方々に運悪く当直にあたった衛兵や召し使いの|遺《い》|骸《がい》があった。  衛兵たちは同僚の不運を|悼《いた》み、あらためてこの命令に疑問をいだいた者もいた。  守るように命じられていた|素性《すじょう》の知れないふたりは|怪《け》|我《が》もなく|救《たす》けられ、巻きぞえをくって大勢が死んだ。  その混乱の夜のうちに、|詐《さ》|欺《ぎ》|師《し》ではないかという|噂《うわさ》は、アルルスにいた衛兵の口から次第に広まっていた。  噂の|真《しん》|偽《ぎ》はともかく、あきらかに遠方から来たと思われる他国人をこうまで|丁重《ていちょう》に護衛しなければならない不満は高まるばかりだ。  グリフォンはそんな無言の不満に気づくことなく、失策した分を取りもどそうと精力的に動きまわっていた。  彼は最上階のみならず、他の部屋や、階段や通路も|残《ざん》|骸《がい》を取りのけて隅から隅まで捜させた。  宝を捜させているとは言わなかった。いつものように訳は告げず、命令を与えただけである。  夜のあいだ、徹底的な捜索は続けられたが、|鉛《なまり》の固まりらしいものは見つからなかった。鉛が溶けた|痕《あと》のようなものも|皆《かい》|無《む》だ。  報告を聞き、みずからも何度か確かめた末、グリフォンはひとつの結論を出した。  夜が明けるとすぐ、彼は保護しておくように命じたアルダリアの|女泥棒《おんなどろぼう》のもとにおもむいた。  イェシルとアヤは救出されてから、いやおうなく近所の農家の離れに連れていかれた。あつかいはていねいだったが、事実上の監禁である。  リューに会いにきただけだと主張していたが、彼女たちの目的はほかにあったとしか思えず、グリフォンはひとまず捕らえておくことにした。  見張りを何人か配した農家の離れに向かいながら、グリフォンはその勘がまちがっていなかったと確信した。  彼が入っていくと、イェシルはもう起きていた。眠っていなかったのかもしれなかった。  イェシルは、粗末な木の|椅《い》|子《す》に長い脚を組んで座っていた。もうひとりの連れの少女は寝息をたてている。  グリフォンはいちおう、飾りのごてごてついた帽子を脱ぎ、朝早く女性のところを訪れる非礼をわびた。 「いつ、あたしたちを出してくれるの」  尊大にイェシルは尋ねた。内心では、このキザ野郎と|舌《した》を出していた。 「いくつか、質問がある。正直に答えてほしい」 「尋ねたいのはこっちよ。あの連中はどこ? なぜ、あたしたちだけ隔離したの」  グリフォンはとまどった。女を|尋《じん》|問《もん》するのはあまり慣れていなかった。 「彼らには別の宿をとった。無事に都まで行ってもらわねばならないゆえ、ほかの者との接触はなるべく避けていただく」 「いただく[#「いただく」に傍点]って、あんたは何様? そんな簡単に人を動かす権利がどこにあるの」 「わたしはセレウコア皇帝から、この件に関しての全権を|委《ゆだ》ねられている」 「そんなのあたしたちには関係ないわ。セレウコアにはなんの世話にもなってないし」  すっかり彼女のペースにのまれて、グリフォンは銅色の髪に手をやった。 「手荒な|真《ま》|似《ね》はしたくない、こちらの問いに答えてくれ」 「やってみればいいわ、|拷《ごう》|問《もん》でもなんでも——|傭《よう》|兵《へい》として戦場にだって何度も行ったわ。手荒なことくらいでおびえると思ったら、大まちがいよ」  イェシルは軽蔑しきったように腕組みした。たしかに彼女は、そのあたりの若い衛兵より、|覇《は》|気《き》も根性もありそうに見えた。 「部屋から持ちだしたものがあるはずだ。それを返してほしい。みあう金額を払おう」  |脅《おど》しすかしは無駄と判断し、|率直《そっちょく》にグリフォンは切りだした。 「なんのこと、あたしたちは連中を起こして逃げるのでせいいっぱいだったわ」  薄緑のイェシルの眼がわずかに|鋭《するど》くなった。 「救出に手を貸してくれた礼は別にする。正直に話してくれたら、金と護衛をつけてアルルスまで送りとどけよう」 「|脅《おど》しがだめなら、金でつる気なの、馬鹿にしないで」 「では何が望みだ。あなたが持ちだしたものは売って金になるものではないぞ。持っていて、何かためになるものでもない」 「さっぱりわからないわ。あたしが何か宝石でも盗んだっていいたいわけ」  大げさに、イェシルは首をかしげてみせた。 「宝石ではない、|鉛《なまり》の固まりだ、紙置きに使っていたものだ」  あのなんの変哲もなさそうな鉛が|噂《うわさ》の財宝らしいと、イェシルは確信した。ほんの気まぐれで持ってきたものだったが、思いがけなく大魚を釣ったらしいと。 「いったいどうして、そんな鉛の固まりを大金を払ってまで取りもどしたいわけ——妙な話だわ」 「われわれにとっては大事なものだ、ほかにはまったく役に立たないものだが」 「どんなふうに大事なの」  イェシルはほほえんだ。 「持っているんだな、あれを」  やっと本題に入ったと、グリフォンは彼女に歩みよった。場合によっては力ずくでも奪いかえすつもりだった。 「おあいにくさま、ここにはないわ」  |牽《けん》|制《せい》するようにイェシルは告げた。  グリフォンの足はとまる。 「どこへやった、隠すひまなどなかったはずだが」 「近くにいた衛兵に預けたのよ。昨日の夜、退屈して手もちぶさただったのね、あたしに|惚《ほ》れてつきまとった衛兵がいたの。あたしのためならなんでもするって誓ってくれたわ——手下の管理がなってないようね。職務なんてどうでもいいみたいだったわ」  ありそうなことだと、グリフォンは言葉につまった。  昨夜の火事を早く発見できなかったのも、半分は衛兵たちがたるんでいたせいだ。炎に気づいて彼が飛んでくるまで、ろくな消火作業もできてなかった。 「厳罰ものだ——いったいどいつだ、そのけしからんやつは」  グリフォンはこぶしをふりまわした。 「できないわよ、|一《いち》|途《ず》に惚れて協力してくれた相手を密告するなんて」 「すぐに言うんだ、言わねば|容《よう》|赦《しゃ》しないぞ」  さらに近づいてきた彼を、イェシルは平然と見上げていた。 「脅しはきかないといったでしょう——ここは|穏《おん》|便《びん》に話しあいといきましょうよ」 「話しあう、何をだ?」 「まんざらあたしだって、話がわからないわけじゃないのよ。条件をのんでくれたら、教えるわ」 「どんな条件だ、前にも言ったように金なら出す」  風向きが変わったと、グリフォンは喜んだ。 「働きに見あった金しかいただかないわ。条件の最初は、あたしを護衛として雇うことよ、あんたたちの個人的な護衛として」  やわらかくイェシルは告げた。 「しかし、それは——」 「役に立つわよ、あたしは、あんたの|怠《たい》|慢《まん》な衛兵の数人分ぐらいは——火事で連中を救けたのは、あんたの衛兵じゃなく、あたしだってことを忘れないで」  どうするべきか、グリフォンは思案していた。イェシルの意図をはかりかねて。 「ほかの条件はそれに関連することよ。あんたたちの近くで護衛するには、いろいろ知らなくては不都合でしょう。あたしとしても好奇心がうずいてならないのよ——あの|鉛《なまり》の固まりはなんなの、まずそれが聞きたいわ」 「あれは特別な製法で作りだした石だ。|魔術《まじゅつ》の貴重な材料になるという——そのくらいしか、今のわたしにもわかっていない」  |覚《かく》|悟《ご》を決め、グリフォンは知っていることを話すことにした。さしつかえない程度に限られていたが。  イェシルを護衛としてそばにおくというのは、考えてみれば好都合だった。  彼女はいろいろ知りすぎていて、このままアルルスに帰すのは不安がある。リューとのかかわりから、またさらわれて|餌《えさ》にされる可能性もあった。  だからといってずっと不当に監禁しておくのも気のどくだと思っていたところだ。 「どうしてそんなものを、目の色を変えてまで欲しがるの」 「魔術にたけた者にとっては大きな価値があるんだ。高位の魔術師はみずからのわざをみがくためなら、魂だって引き替えにする。わたしはギルドで上級の資格を得た魔術師でもある」  疑わしそうにイェシルは見ていたが、ひとまずは納得したようだった。 「それと、あのふたりとはなんの関係があるの。連中も魔術師の仲間とは思えないけど」 「関係はあるともいえるし、ないともいえる。石と同様に、彼らも無事に皇帝のもとまで送りとどけるのがわたしの仕事だ」 「あのふたりは何者なの、ただの放浪者ではないのでしょう」  イェシルの|声《こわ》|音《ね》はかすかにふるえた。 「あなたはリューシディク殿のために、護衛としてそばについていたいのか。アルルスで、あなたがたのあいだにいろいろあったのは知っているが」 「よけいなお世話ね、それとこれとは別よ」  |頬《ほお》をそめ、イェシルは横を向いた。なんて無神経な尋ね方をするやつだと思いながら。 「別ならいいが、あなたのために忠告する。それがさきほどのあなたの問いの答えにもなるが——あの方は一見そうとは見えないが、あなたが想像もつかないほど高貴な方だ。身分が尊いばかりではない。あの方が何度も狙われているのは、滅んだある国の高貴な血筋につらなる、おそらくたったひとりの存在だからだ」  怒りも忘れ、イェシルは|茫《ぼう》|然《ぜん》としていた。  彼女の知っているリューの様子からは、とても考えられないことだった。良家の子息かと思ったことぐらいはあったが。 「身分ちがいだと月なみなことは言いたくないが、あの方と並んで立てる女性はめったなことでいないだろう。セレウコアの皇帝に年のつりあう皇女がいたとすれば、かろうじて縁組みが可能だろうが」  グリフォンは淡々と語った。 「じゃあ、もうひとりはなんなの。銀髪の、いつもいっしょにいるのは」  屋上で寄りそっていたふたりを思い出し、イェシルはふたたび怒りをおぼえた。 「あの方も世が世ならば、わたしよりも位は高いかもしれない。リューシディク殿の片腕として、何年もそばに仕えてらした忠義な方だ」 「時代がかった言い方ね、今の位はないってことでしょう。セレウコアがまた見あった位でも与えるっていうの」  やけくそ気味にイェシルはつぶやいた。 「皇帝のもとにおもむけば、おそらくそうなるだろう。皇帝はあの方たちを同列に遇されるはずだ」  グリフォンはつい口をすべらせた。これを言ってしまうと、リューはますますいやがって逃げてしまうにちがいないので、黙っていたことだったが。 「——わかったわ、どうでもいいのよ、あたしは——好奇心から尋ねてみただけ」 「それなら護衛の件は承諾する。あなたにも巻きぞえで危険がおよぶかもしれないから、いい条件だ」  けれどイェシルは、持ちだした宝のことなど頭になかった。グリフォンの話は彼女の想像をはるかに越えていた。 「さあ、言ってくれ、渡したのはどの衛兵だ」  グリフォンにのぞきこまれて、イェシルはやっと自分を取りもどした。 「渡したなんて|嘘《うそ》よ、ここにあるわ」  上着の隠しから、イェシルは|鉛《なまり》の固まりを取りだした。  どうせすぐに見つけられるなら、その前にいろいろ情報を聞きだしてやろうというのが彼女の最初のもくろみだった。  だまされたとわかり、グリフォンは|憮《ぶ》|然《ぜん》とそれを受けとった。 「どうするの、護衛の件を取り消したいならそれでもいいわよ」  イェシルは挑戦的に尋ねた。 「あなたは本気でそうしたいのか」 「ええ、給金をはずんでもらえればいい仕事だと思うわ。アルルスでの|稼《かせ》ぎもへっていたし、転職するにはいい時期よ」  まだ渋い顔のグリフォンに、彼女は迷わず告げた。  そのころ、リューは話題にされているのも知らず、相棒とともに朝寝をむさぼっていた。  死にかけたりいろいろあったが、ひさしぶりのふたりきりの時をすごし、満ちたりた眠りの中にいた。  彼らの宿は橋の近くにあった一軒家で、まわりにはずらりと衛兵たちが囲んでいた。今度こそは|蟻《あり》の子一匹も、怪しい者を近づけないよう厳命されていた。  目がさめたリューが窓をあけると、整列した衛兵たちに敬礼された。うさんくさそうな視線はさらに強くなっていたが、態度だけは|丁重《ていちょう》だった。  運ばれてきた朝食にもすべて毒味がつき、食いちらかされたように見えて食欲が減退した。いいかげんに彼は、この状況に我慢ならなくなってきた。 「宝は見つからなかったという話ですよ、小耳にはさんだところによれば」  エリアードは報告した。実際のところは、部屋づきのおとなしそうな衛兵を呼び、簡単な暗示をかけて聞きだした内容だった。 「焼けてなくなったか、誰かが盗んでいったんだろう」  さばさばしたようにリューは応じた。  約束を果たせなかったのは残念だったが、むしろ狙いが宝ではなく彼らにあるとわかってきてからは、手を引くべきだと思えてならなかった。  昨夜のような状況で宝が失われたのなら、彼らとしてもどうしようもない。あとは衛兵たちが、人海戦術なりで見つけだすほうが確実にちがいなかった。 「もう少し頭がはっきりしてれば、あのまま置いてくることはなかったのに……」  ほとんど意識がなかったことを、エリアードは失策のように悔やんでいた。 「よくおぼえてないが、部屋を出るときに、あれはなくなっていたような気がする。寝台の|脇《わき》の台にあったんだ、目に入れば気づいたはずだ」 「じゃあ、わたしたちが眠っているあいだに、もう盗まれていたということですか」 「明言はできない。煙が立ちこめていたから、見落としたのかもしれないな」  あのときの状況を思い出し、リューも|女泥棒《おんなどろぼう》に疑いをいだいていたが、相棒には言わなかった。 「仕方がない、不可抗力だ、われわれも死にかけたのだから」  なぐさめるように彼は付け加えた。 「あれはなんだったのでしょう、ついにわからずじまいだ」 「好奇心はひとまずしまっておけ。何にしてもあれが失われたなら、都に入る理由はなくなるわけだ。こうしていまいましい衛兵どもに取りまかれることも」  これまで抑えてきた|苛《いら》|立《だ》ちをリューは表に出した。 「あなたの気持ちはわかるが、わたしたちは事実上、都に連行されるしかない|虜囚《りょしゅう》ですよ。ナクシット教団からより、セレウコアの保護下から逃げるほうが、今となってはむずかしい」 「たしかにそうだが、機会が|皆《かい》|無《む》なわけではない。逃げることすら考えられなかった状況から考えれば、いくらかましだ、気やすめ程度でも」 「でもそれが成功したら、ナクシットとセレウコアの両方に追われるはめになりそうじゃないですか。あまり考えたくないけれど」  はやる気持ちをなだめるように、エリアードは優しく彼の肩を抱いた。 「——わたしが悪いんだ、発端を作ったのはわたしだから」 「反省されているなら、その件についてはもう責めませんよ」  ふたりは、夜のあいだも幾度となくかわされた|接《せっ》|吻《ぷん》をくりかえした。  比較的長く続いていた冷戦が解消し、彼らの|苛《いら》|立《だ》ちもいくらかは静まっていた。  しかし|蜜《みつ》|月《げつ》の時はすぐに破られた。  グリフォンの大きな足音が、宿の玄関から響いてきた。  ふたりは仕方なく、互いの背中にまわしていた腕をほどいた。 「喜んでくれ、見つかったぞ」  開口一番、グリフォンはそう告げた。彼の手のひらには、ぴかぴか光る|鉛《なまり》の固まりが乗せられていた。  ふたりは顔を見あわせた。エリアードはそれでも|安《あん》|堵《ど》の気持ちがなくはなかったが、リューは頭をかかえたくなった。 「それでというわけではないが、身近な護衛の者を増やすことにした」  グリフォンはややためらいがちに言い、|扉《とびら》の向こうにいた|女泥棒《おんなどろぼう》を呼びよせた。  イェシルはほほえみながら、ふたりの部屋に入ってきた。セレウコアの衛兵のしるしである交差された|槍《やり》の紋章が、上着の胸に縫いつけられている。  彼女につづいて、品のいい小ぎれいな衣服に着替えたアヤも入ってきた。 「どういうことだ、こいつは」  リューはしかめつらのグリフォンと、笑顔の女泥棒を交互に見つめた。 「あなたがたと、この貴重な宝を火事から救ったのは、彼女だ——ほうびは何がいいかと尋ねたら、近衛の兵として雇ってくれと頼まれた。さまざまなことを考慮した末、承諾もやむをえないとあいなったのだ」  すでに後悔しているふうにグリフォンは小声になった。 「あたしは身のまわりの世話をする|侍《じ》|女《じょ》ってわけだよ。けっこう役に立つから、よろしくね」  横からのびあがるようにしてアヤが言った。 「どういうつもりだ」  不敵に笑う女泥棒に、リューは問いかけた。 「あなたのそばにいたいから頼んだなんて、まちがってもうぬぼれないでよ」 「じゃあ、何が目的だ」  少しはうぬぼれていたリューは、口もとを引きしめた。 「客観的に見て、いい仕事だからよ。人生のいい転機だと思うし、一介の|傭《よう》|兵《へい》や、アルルスのけちな泥棒より、格段の出世だわ——皇帝の信頼を得ている高位の|魔術師殿《まじゅつしどの》に恩を売っておくのも、将来のために悪くはないしね」 「魔術師ではない、正確には観相師だ」  グリフォンはすかさず訂正した。 「セレウコアの都を見てみたい好奇心もあるのよ。乱暴でごつい|田舎《い な か》|者《もの》のあたしだって、|華《はな》やかなものにあこがれる若い娘らしい気持ちはあるわ。あなたのような高貴な方にはおわかりにならないかもしれないけれどね、リューシディク様」  いやがらせの味を噛みしめながら、イェシルは|無《む》|邪《じゃ》|気《き》そうに正式な名を呼んでみた。  リューはただ金の眼を吊りあげ、黙ったままでいた。 「まったくけっこうな都行きのご一行ですね」  相棒の気持ちを代弁するように、エリアードは評した。しかし彼は半分、吹きだしたいのをこらえていた。 「——あんたをあらためて|恨《うら》むよ、グリフォン殿、どう言われようと|厄《やく》|災《さい》はあんたと出会ったことだと思えるね」  すれちがいざまに、リューは耳もとでささやいた。  否定しきれず、グリフォンは量の多い髪をかきむしった。 「わたしは正直いうと、女性は|苦《にが》|手《て》なんだ、仕事の上でもこれまであまり女性をあつかったことはなかったし、ついうまく乗せられてしまった……申しわけない」 「だったら剣でも抱いて、おとなしく部屋にいるといい」  捨て|台詞《ぜ り ふ》を残し、リューは部屋を出た。  この|面《めん》|子《つ》と狭い部屋で顔をつきあわせているなら、衛兵たちのうさんくさい視線のほうがましだった。     5章 襲撃ふたたび  金色をした大型の船が、その日の午後に着いた。  よりすぐった衛兵を護衛につけて、一行はそれに乗りこみ、夕方に出発した。  |帆《ほ》と人の力を併用して進むつくりの船で、サライの大河をななめに横切るべく双方が動員された。  船自体はそれほど大きいものではなかったが、やたらと装飾部分が多く、おまけに全体が金ぴかに塗られていた。  |舳《へ》|先《さき》には|牙《きば》をむいた金の|獅《し》|子《し》が乗り、ひるがえる帆は深紅の地に金糸の|刺繍《ししゅう》入りで、掲げられた旗は大小とりまぜておびただしいまでの量だ。 「これでは狙ってくれといわんばかりじゃないか。おとりの船じゃないんだぞ」  甲板に出て、リューは文句をつけていた。グリフォンの趣味の悪さには閉口してきたが、今回は実害までともないそうだ。 「セレウコア人っていうのは、とにかく派手好きなのよ。飾りたてるのが美徳だと思ってるくらい」  護衛の名目で付きそっているイェシルがささやいた。 「では、都の眺めも見当がつきそうだな」 「だから今から楽しみなのよ。知りあいの衛兵に聞いた話じゃあ、貧民区でさえ、石や|漆《しっ》|喰《くい》の本来の色や形をした家はないそうよ——|金《きん》|箔《ぱく》が手に入らなきゃ、とにかく目立つ色で塗りたくって、自家製の飾りをつけるんですって。もちろん町並みに負けないくらい住人も飾り立てていて、二階の窓に届くぐらいの羽根帽子が流行ってるってさ」  イェシルは|機《き》|嫌《げん》がよく、|饒舌《じょうぜつ》だった。  いくらリューといえども、それが好意からくるものとはうぬぼれられず、|居《い》|心《ごこ》|地《ち》の悪い思いをしていた。 「派手好きとはいえ、時と場合というものが——」  リューの悪い予感は的中し、向こう岸が見わたせるあたりで頭上に黒い影がさした。  夕方の赤みを帯びた空に、大きな黒い鳥が何羽か群れをなしていた。  知らなければいやに大きな鳥だと思うだけだが、それはアルルスで彼らを襲ったソグト鳥にまちがいなかった。  鳥たちの下には|紐《ひも》で結びつけられた大きな|籠《かご》がさがり、黒ずくめの小柄な|魔術師《まじゅつし》が乗りこんでいる。 「弓兵、集合——!」  向こうの甲板で号令がかかった。  数は少ないが、えりすぐりの衛兵たちが弓を手に船倉から現れた。  空の鳥に向かって、矢はいっせいに射かけられた。  矢の雨を器用にかいくぐり、|籠《かご》は船の上からぬるぬるとした液体をまきちらした。  矢のいくつかは鳥の羽根や籠の下部に当たったが、落とすまでにはなかなかいたらない。  ひらひら舞っていた|帆《ほ》や旗は、ねっとりとした液体でしなだれはじめた。まかれた液体は油にちがいなかった。 「|舳《へ》|先《さき》に避難しろ、帆柱から離れるんだ」  あぶないとみて、グリフォンは命じた。  一部の弓兵を残し、衛兵たちは彼のもとにしりぞいてきた。 「ナクシットの|輩《やから》め——昨夜の火事といい」  アルルスでも見かけた鳥籠を、グリフォンはにらみすえた。  乗っているのは、ウィリクのようでもあったが、遠目には見わけられない。 「ナクシットの御言葉に従い、われらはありえざる異邦の民を|駆《く》|逐《ちく》する。それを保護する者も同類とみなす」  筒か何かで拡大された声が、空から降ってきた。  聞きおぼえのあるドゥーリスの修業仲間の声にまちがいなく、怒りだけではない複雑な思いでグリフォンは鳥籠を見上げた。 「これは明らかなセレウコアへの宣戦だ。そう解釈するぞ、ウィリク——!」  聞こえはしないと思ったが、グリフォンはそう叫んだ。 「偉大なるナクシットの御ために——われらが教団の未来のために」  声とともに、一羽のソグト鳥が射ぬかれたふうに落ちてきた。  しかしそれは矢が命中したわけではなく、船に火をつける|松明《たいまつ》のかわりだった。  船へ達するまでに鳥は火だるまとなり、油にまみれた帆や旗を燃えあがらせた。  そんなやりとりのあいだに補助船がいくつか浮かべられ、リューと相棒はそのひとつに乗りこまされた。  さからってもむだと、彼らは素直に従った。  補助船とはいっても、粗末な漁師船よりもさらに小型で、|筏《いかだ》と変わらないくらいだ。ふたりと荷物が乗って、いっぱいになる程度のものである。  波は高く、補助船はひどく揺れた。 「こんな目立つ大きな船でのんびり進んでるから、狙われるんだ」  舳先のグリフォンに向かって、リューは悪態をついた。  これなら漁師船のひとつにでもこっそりもぐりこみ、さっさと河を渡ってしまったほうがどれだけましかわからない。  グリフォンは甲板で衛兵たちとともに、必死の消火作業をつづけていた。  しかし甲板に燃えうつった火は消せても、帆や旗のほうはとても無理だった。やたらと量が多いうえに、油をたっぷりとふくんでいたせいである。それも飾りすぎた船の|弊《へい》|害《がい》にちがいない。  鳥に運ばれた|籠《かご》はかなり矢を受け、|均《きん》|衡《こう》をくずしかけていた。  籠は向こう岸のほうにあぶなかしく飛んでいったが、途中で落下した。  グリフォンは箭の|行《ゆく》|方《え》を気にしていたが、波にのまれてすぐに見えなくなった。  |帆柱《ほばしら》のたぐいは全滅だったが、船自体はどうにか焼け落ちずにくすぶっていた。  けれど|漕《こ》ぎ|手《て》の中には恐怖で逃げだす者もいて、船は流れにまかせて頼りなくただよっていた。  もしものときのために避難させられたふたりだったが、母船のほうはなんとか持ちこたえられそうに見えた。  ひときわ背が高くて目立つグリフォンは精力的に動きまわりながら、甲板から彼らを収容する命令を出した。  イェシルとアヤも衛兵とはいいながら、女子供の特権を利用して補助船のひとつを陣どっていた。  揺れる補助船の上から、アヤはふたりに手をふった。  と同時に、大きな波が押しよせて、ふたりの乗った船を転覆させた。  裏返しになった船につかまり、すぐにリューは浮きあがった。エリアードも近くに頭を出した。  彼らは互いに、ずぶぬれの姿をうんざりしたようにながめた。 「よかったら、こちらに乗りなよ」  アヤが気楽な声をかけた。彼女たちの船は揺れていたが無事だった。  母船の救出が来るまで水につかっているのはたまらず、ふたりはそちらの船まで泳いだ。  非常食らしい荷物を残らず捨てると、船はなんとか四人を乗せることができた。  イェシルは向こう岸を確かめた。  船は流されて、かなり岸に近づいていた。 「お宝は無事なの? 河の中に沈んではいないでしょうね」  心から案じるようにイェシルは尋ねた。 「こんなこともあろうかと、しっかり身につけているさ」  リューは|鉄鋲《てつびょう》を打ったじょうぶな|革帯《ベ ル ト》を示した。そこから|鎖《くさり》を通し、|鉛《なまり》の端にあけた穴に結びつけたうえ、隠しの中に入れている。  こうして身につけていれば、火事でも地震でも置いてくることはあるまいと、グリフォンに頼んで細工させたのだ。 「さすが、失敗はくりかえさないのね、立派だわ」  イェシルはにっこり笑ってほめた。  そして短剣を取りだし、すばやく補助船と母船をつなぐ綱を断ち切った。 「何をするんだ!?」  リューはつめよろうとしたが、船が揺れてかなわなかった。この人数を乗せていては、立ったり座ったりはとうてい無理だ。  母船では、|縄《なわ》|梯《ばし》|子《ご》で降りてきた衛兵が綱をたぐり寄せているところだ。切れたことにも気づかず、衛兵は綱を引いている。  しかし補助船は流れにのまれて、見る見るうちに母船から離れていった。 「岸は近いわ、そのうちどこかに流れつくはずよ」  悪びれずイェシルはつづける。 「感謝されてもいいはずじゃない。あなたはセレウコアのもとから逃げたがっているようだったし、好都合でしょう」 「しかし——」 「それとも何かしら、あたしたちといっしょではご不満なの。いちおうはまだ衛兵だから、岸までは送りとどけるわ。そのあとは右と左に別れてもいいのよ、お望みならば」  返答に困って、リューは相棒を見た。  イェシルの言葉には一理あったが、動機にふくまれているのはかならずしも好意ではなく、その逆に近そうだ。  ひとときは親密な恋人どうしだった|女泥棒《おんなどろぼう》にどうしてこんなに|恨《うら》まれるのだろうと、彼は沈んだ気持ちで考えた。 「宝が望みですか。せっかくの職を投げだすほどのものじゃないと思うけどな」  冷静にエリアードは問いかけた。 「高位の|魔術師《まじゅつし》なら、命だって差しだすほどの貴重な石だと聞いたわ」 「あのグリフォンからですか」  イェシルはうなずいた。  グリフォンはあきらかに、女泥棒ならわかるまいとたかをくくり、彼らふたりに話さないことまで口をすべらせたのである。 「……なるほど、そういうたぐいのものだったのか」  ごく小声でリューはつぶやいた。  グリフォンはまだはっきりしないと言いつつ、かなりのことを知っていて黙っているにちがいないと彼は確信した。 「ほかにも何か言われましたか」  やんわりエリアードが尋ねると、イェシルはきつい薄緑の眼を光らせた。 「ええ、あなたがたがセレウコアの皇帝にも並ぶほどの高貴な血筋だとも聞いたわ。ナクシット教団から狙われるのもそのせいだって。身分ちがいだからあきらめろともね」 「——あの馬鹿、今度会ったら殴ってやる」  イェシルのくやしさを理解し、かつてのもろもろの腹立たしさを思い出して、リューはこぶしを握りしめた。もっと早く殴りたおしてやるべきだったと後悔しながら。 「たしかに、好都合だったかもしれませんね、グリフォンと別れたのは」  相棒のいきりたった様子を見て、エリアードはこの思いがけない漂流を感謝する気になった。  上半分の焼けこげた母船はどこに流されたのか、もう見えなくなっていた。  すっかり日が暮れたころ、彼らの船は岸に打ちつけられた。  都には近いはずだったが、ひと気のない|鬱《うっ》|蒼《そう》とした森だ。  上陸すると、船はすぐ下流にながした。セレウコアの衛兵たちは総動員で|行《ゆく》|方《え》を捜しているだろうが、発見はなるべく遅らせたかった。  近くにあった|木《き》|樵《こり》の家から|火《ひ》|種《だね》をもらい、森の手ごろな空き地を見つけて、彼らは野営を張った。  着ているものはびしょぬれで、まずかわかさなくてはならない。暑い気候の地とはいえ、東方の荒れ地にくらべれば夜中はかなり冷えこんだ。  今夜はひとまず、|女泥棒《おんなどろぼう》も休戦する心づもりだった。  宝はあきらめてなかったが、グリフォンの不用意な発言を本気で怒ったリューをまのあたりにして、少しは気持ちがやわらいでいた。  熱した石で湯を|沸《わ》かし、エリアードは|摘《つ》んできた野草の茶をいれた。  野営なら慣れたもので、食用の草や木の実にも彼はくわしかった。  リウィウスではそうした技術は|白魔術《しろまじゅつ》の一端にふくまれて、この地に来てからも、彼はそれを応用し、新しい土地へ行くごとにみがいてきた。  木の芽と|蔓《つる》の根を煮こみ、塩の実と香料になる草で味つけした簡単な食事を彼らはすませた。  美食家のグリフォンにつきあわされ、ごてごてした多量の料理にあきあきしていたふたりにとって、なつかしくなじんだ料理である。  リューは相棒とも相談し、宝と称する|鉛《なまり》の固まりを手に入れたいきさつを彼女たちにかいつまんで話すことにした。彼らがそれを運んでいたわけも説明するために。  女泥棒は中途半端に知りすぎていて、このまま放っておくのはよくないと考えてのことである。  グリフォンの馬鹿がまったくよけいなことまでしゃべるからだと、リューはあらためて腹を立てていた。  彼らの|素性《すじょう》については、どこか北方の滅びた王家の|末《まつ》|裔《えい》だと思っているようなので、くわしくは話さずにおいた。魔術師でもない彼女たちが信じるとも思えなかった。 「だからアルダリアの同胞を殺したのね」  隊商が全滅させられるくだりを聞いて、イェシルは納得した。 「いくら利で動く|輩《やから》とはいえ、許せませんでしたから」  直接、手をくだしたエリアードが応じた。 「あこぎな|真《ま》|似《ね》をしたものね、同胞たちも最近は|稼《かせ》ぎどころがなくて、すさんでるようだわ」 「君も早くこの件からは手を引いたほうがいい。グリフォンの野郎から、できるだけの金を引きだして、どこか遠くの町にほとぼりがさめるまでひそんでいろ」  親切のつもりでリューは言ったが、女泥棒の表情はとたんに険しくなった。 「金、金って、それはあるにこしたことはないけど、アルダリア人がみな、金で動くとでも思ってるの——それから、あんたに何かしろと命令されるいわれもないわ」 「では勝手にしろ、巻きぞえをくってまたさらわれるか、殺されてもしらないからな」 「巻きぞえならとうにくってるわ。あなたがいやがろうと、あたしたちはもう|一蓮托生《いちれんたくしょう》なのよ」  イェシルはぷいと横を向いた。 「われわれは明日にでも都に入り、皇帝に|謁《えっ》|見《けん》を申しでる。この妙な|鉛《なまり》をかかえたまま、うろうろしていても仕方ないからな——グリフォンの野郎が役に立たない細工をろうしなければ、数日前には着いていたはずだ。旅を短縮してくれたことには、あらためて感謝するよ」  隊商の話をするうちに責任を感じてきたリューは、気が変わる前にそう宣言した。  エリアードは最初からそのつもりだったから、相棒がやっと使命感をとりもどしてくれたかと|安《あん》|堵《ど》した。 「護衛でついていってあげるわ。代金はグリフォン殿にいただくから、無料でいいわよ」  とたんに愛想よく、イェシルは言った。 「自分の身ぐらいは自分で守れる。それに君はともかく、もうひとりの連れは足手まといだ」  冷たくリューはことわった。|女泥棒《おんなどろぼう》を巻きこむのはいやだったし、これ以上の面倒ごとはさけたかった。  イェシルの狙いが、護衛のほかにあることもあきらかだ。 「あら、よくもそんなことが言えるわね。眠りほうけて焼け死ぬところだったあんたたちを|救《たす》けたのは、誰だったと思うの」 「目がさめたら、宝ごと君たちふたりが消えていたという状況は考えたくないんでね」  イェシルは次の言葉につまった。  確かに彼女は|隙《すき》をみて、財宝を奪うつもりだったからである。補助船の綱を切り、セレウコアの衛兵と彼らを離したのもそれが目的だった。 「泥棒にも仁義があるんだ。そんなあこぎな|真《ま》|似《ね》はしないよ」  足手まといと言われてふくれているアヤが口を出した。 「信用してくれないの、いっときは立場も忘れてひかれあった|間柄《あいだがら》じゃないの」  以前の|魅《み》|惑《わく》|的《てき》なほほえみで、イェシルはささやきかけた。 「ことわっても、ついてくるつもりなのだろう」  ため息まじりにリューは応じた。 「ええ、あたしたちも都に行くつもりだから」 「それならはじめから、ついていっていいかと尋ねるのは時間のむだだ。好きにすればいいさ」  |漆《しっ》|黒《こく》と純白のイェシル、とたたえた女泥棒の態度の変わりようは、|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》と思いつつも彼にはこたえていた。  彼女にひかれた気持ちは確かだったし、今もまったく何も感じないといえば|嘘《うそ》になった。気が多いだけだと相棒なら言うだろうが。 「都に入るまでは、休戦しましょう」  イェシルは彼に手をさしだした。     6章 |城砦《じょうさい》都市  翌日、彼らはセレウコアの都に入った。  |城砦《ドゥール》セレウコアと呼ばれ、この地方では最大の都だったが、|拍子《ひょうし》ぬけするほど簡単に入ることができた。  というのも、彼らの流れついた森が、都の城壁のすぐ裏手だったからである。  夜のあいだは小高い|崖《がけ》に見えた岩壁が、都の城壁だった。  セレウコアの都は広大な岩の台地を利用して造られ、城壁のほとんどは天然のものだ。  彼らは崖のなだらかなところを選び、よじのぼった。  崖の上はところどころに石壁がめぐらしているだけで、それを乗りこえるとすぐに都の中だ。  街道をまともに行っていれば、厳重な検問がいくつかあり、都門でも調べられるはずのところだ。うまいぐあいに、船が流れついたわけである。  森の|木《き》|樵《こり》には、エリアードが暗示をかけ、彼らの存在を忘れさせた。都の裏手にひとりで住んでいる老いた木樵は、それほどの苦労もなく暗示にかかった。  都の町並みは|噂《うわさ》に聞いていたとおり、派手派手しかった。  下町の一画らしいが、狭い路地にひしめく家は原色で塗られ、何軒かにわたってひとつの模様や、連作めいた絵画になっている。  品がいいとはいえないが、それなりに迫力のある絵で、王宮の間に飾ってもいいような傑作もまじっていた。  道にも、彩色した石で模様が描かれている。  そこを行きかう都の住人も、祭りの日かと見まがうほどに着飾っていた。  高価そうなものではないのだが、ぼろ布を染めなおしてつなぎあわせ、乾燥させた花を飾ったようなものが多い。それも老若男女を問わずである。  地味ないでたちの者は目立ち、すぐによそ者だとわかった。  商売か何かでほかからやってきたふうの者たちも、臨時に花をつけたりして、なんとか派手にしていた。  彼らはまず古着屋に直行し、着ているものを売った。  グリフォンに無理やりあてがわれた衣類は高級なもので、都の流行も取りいれたものらしく、古着屋には喜ばれた。  急いでいるのと、わけありで、足もとを見られたが、それでもかなりの金額になった。  その代金で日よけつきの|外《がい》|套《とう》を買った。|真《しん》|紅《く》や|橙《だいだい》や、染めむらのある布地をつなぎあわせ、金属の止め金でとめた派手なものである。  それでやっと、彼らは人目を気にせず、街路を歩けるようになった。  幸い、空は曇ってないので、日よけのフードを深くおろしてもあやしまれなかった。  アルルス生まれのアヤだけは、このあたりの住人と見かけは変わらなかったが、他の三人は|外《がい》|套《とう》で身を包まないことには、ひと目で異邦人とわかってしまう。  アルダリア人はときどき見かけたが、イェシルの黒っぽい|肌《はだ》と白金の髪はやはり目を引いた。  ほかのふたりの日焼けしてない肌はもっと目立った。色白の北方人らしい者は商人の中にもほとんどいない。  そのせいで買い物や交渉は、もっぱらアヤの仕事だった。  昨晩、足手まといだと言われたことを怒っているアヤは、何度もリューにその発言を訂正させた。  たしかに都に入って一番働いているのは彼女である。  下町のせいか、衛兵の数も少なかった。  それもそのはずで、道行く人に尋ねたところでは、皇帝のいる|歓喜宮《かんききゅう》は、天然の|城砦《じょうさい》である岩の台地のもっとも高いところにあり、徒歩でまる一日はかかるという。  王宮の門から本殿までは、長い石段がつづき、いくつもの関門が途中にもうけられ、そこを通るだけでまた、まる一日はかかるそうだ。  あまりの長い道のりに疲れをおぼえ、リューは都に来たことを後悔した。  ハルシュ老から宝といっしょにもらった使者のしるしの指輪は、エリアードが髪の根に|結《ゆ》いこんで持っていたが、皇帝に|謁《えっ》|見《けん》するのは|並《なみ》|大《たい》|抵《てい》でないようだ。 「渡すのをあきらめるなら、早く言ってね」  イェシルが、気落ちした彼をのぞきこんだ。 「あきらめたら、どうするんだ」 「あたしが高く売ってあげるわ。野心のある|魔術師《まじゅつし》にでも、はったりをかけてね」 「やめておこう、隊商に化けて出られそうだ」  リューは足を早めた。 「賢明な判断です——あなたも、この人を悪と|堕《だ》|落《らく》の道に誘わないでください」  |女泥棒《おんなどろぼう》をふりかえって、エリアードは言いそえた。そばで見張ってないと、相棒は彼女に丸めこまれそうだと警戒しながら。 「心外だな、一度した約束を放りだすとでも思ったのか」  フードを|目《ま》|深《ぶか》におろし、リューはつぶやいた。  独特の|槍《やり》を掲げた兵士が、通りの向こうを横切っていった。 「宝がなくなったとき、どこかでほっとしていたのは確かでしょう」  エリアードは彼をのぞきこんだ。 「あいかわらずたいした勘だな」  彼らは並んだり、離れたりして狭い区画をぬけ、大きめの通りに出た。  右側の斜面には段々畑の果樹園があり、風とともに甘い香りがただよってきた。  果樹園の|柵《さく》には、グリフォンの調達した船に掲げられていたような色とりどりの旗がひるがえり、セレウコア人の趣味がうかがえた。彼らはあまり実際の役に立たない、飾りのための飾りが大好きなようだ。  左手の斜面には、アルルスで見かけたような黒石の四角い建物がそびえていた。  町並みを見おろすその黒々とした建物は、ナクシット教団のものと考えてまちがいなさそうだ。  ナクシットの分教所とおぼしきものは、アルルスから馬を走らせてきた街道にもあり、セレウコアの都にも点々と黒いしみをしるしていた。  彼らの行く手を幾度も|邪《じゃ》|魔《ま》したのは、教団でもごく一部の者たちらしく、大方の信者はただ日々の祈りにあけくれているだけらしい。  都の通りにも、信徒らしい黒服の者も見かけた。  彼らはたいがい、まわりの何ものにも関心がないかのように、道の隅にひれふして祈りの文句を唱えていた。  ナクシットの御名にかけてとか、ナクシットの御ためにとかの文句が幾度となくくりかえされ、道行く者たちにも聞こえてきた。  他国から来た商人よりも、その黒い地味な姿は目立ち、まわりからうさんくさい目でながめられていた。  うしろ指をさしたり、小石を投げる者もいた。ナクシットの徒は都でも|忌《い》みきらわれているようだ。  下町の区画を出ようとするところで、兵士たちが綱を張り、検問をおこなっていた。 「近づかないほうがいいと思うけど」  イェシルはそっと忠告した。 「グリフォンの野郎はまだ河岸を捜索してるだろう。この使者の指輪を見せて通れば、あいつよりも先に皇帝のもとへたどりつけると思うが」  あまり自信はなかったが、リューはそう主張した。  かえって検問で調べられたりしたほうが、長い道のりを少しは短縮できるのではないかという期待もある。 「下っぱの兵たちのあいだで、あなたたちはあまり評判よくなかったのよ。それが伝わってないといいけどね」  検問の兵たちから見とがめられないように、イェシルはうつむいた。その中にひとつ、彼女の知っている顔があったのだ。 「回り道を探したり、策を練ったりしていると、よけいに時間をくいそうだ。別に悪事を働いているわけではないのだから、正面から行ってみるさ」  |女泥棒《おんなどろぼう》の言葉を、リューはそれほど気にとめてなかった。  エリアードはやや|眉《まゆ》を寄せたが、口は|挟《はさ》まないことにした。 「じゃあ、幸運を祈るわ」  いちおうは忠告したのだし、やばそうなら離れていようと、イェシルはアヤとともに通りの角まで引きかえした。 「なんだかいやな予感がするな」  エリアードは小声でつぶやいた。 「おまえの勘はけっこうあたるが、今度はどうかな」  ここでやめるとは言いだせず、リューは検問の列にならんだ。  順おくりに通行証や|都人《みやこびと》である証明手形を調べていく兵たちの中には、以前にアルルス勤務をしていたクファがまじっていた。  サライ河の宿の火事があった夜、警備にたずさわっていた者たちは、怒ったグリフォンによって配置がえされた。もっと優秀な衛兵と交替させるため、その夜のうちに漁師船で帰されたのである。  暗い荒れた河を渡るときには、不幸な兵たちはみなで祈りを唱えつづけた。  なんとか命からがら都にもどると、彼らが命じられたのは検問の番である。  検問の仕事は単純で退屈なもので、衛兵としてみれば事実上の降格にあたった。  クファと何人かの同僚は今日から都の各地区に散って、このおもしろくない仕事についていた。  使者の指輪を持ち、皇帝のもとにおもむきたいという他国人らしいふたりをかいま見て、クファは驚いた。  グリフォンに護衛されていたはずの連中が、どうしてこんなところに現れたのか。あまり回転の早くない頭を、彼はせいいっぱいフル回転させた。  彼の中には、サライの河岸での不愉快な記憶がよみがえった。イェシルから聞いた|詐《さ》|欺《ぎ》|師《し》の話も。 「その|被《かぶ》りものを取ってみろ」  同僚を押しのけ、クファは高飛車に命じた。使者の指輪は本物であり、問題なく通ろうとしていたところだ。 「|陽《ひ》|射《ざ》しがまぶしいんだ、取りたくはない」  むっとしてリューは言いかえした。  クファはかまわず腕をのばし、フードを払いのけようとした。  とっさにリューは背後に身を引いた。その動きでフードがずれて、彼の青白い顔と|金褐色《きんかっしょく》の髪がのぞいた。 「まちがいない、こいつらは方々で悪事を重ねた|詐《さ》|欺《ぎ》|師《し》だ。サライ河の岸で俺たち衛兵を引きまわしたかと思えば、こんなところに現れやがって——今度はわれらの皇帝が狙いなのか、ふてえやつらだぜ」  |口《こう》|角《かく》|泡《あわ》を飛ばし、クファはわめいた。  同僚たちは彼の剣幕に|茫《ぼう》|然《ぜん》としていたが、いちおうつぎはぎ|外《がい》|套《とう》のふたりを逃がさないように囲んでいた。 「詐欺師だって、いいかげんなことを言うな、この急いでいるときに」  妙な|因《いん》|縁《ねん》をつけられたと怒ったリューは、さわぐ衛兵の上着をつかんだ。 「こいつらをとらえろ、これ以上セレウコアを|愚《ぐ》|弄《ろう》されてなるものか」  クファは叫んだ。  検問の兵たちは同僚の言い分を採用して、ふたりを詐欺師として連行した。|有《う》|無《む》をいわせずに。  通りの角に身をひそめ、なりゆきをうかがっていたイェシルは、だから忠告を聞いておけばいいのにと文句をつけていた。  彼らがどうなろうと関係ないはずだったが、少しは心が痛んだ。宝を奪う機会がなくなるのも、残念だ。  昨夜、ともに野宿したときには、あこぎな|真《ま》|似《ね》をしないと協定を結んだせいで手を出せなかった。  都に入ってからも|隙《すき》をねらっていたが、警戒されてむずかしかった。 「こうなったら、とことん連中につきあってやるわ」  あきらめきれない思いで、イェシルもそっとあとを追うことにした。  |牢《ろう》|獄《ごく》に放りこまれて、どれくらいの時がすぎたのだろうか。  刑の決まってない罪人を入れておく獄舎は、|歓喜宮《かんききゅう》の下方あたりにあった。  ひったてられてたふたりは、たしかに彼らだけで行くよりはずっと早く、宮殿の門まで到着できた。  問題はその先だった。  日暮れまでに門に着いた彼らだったが、皇帝のもとにおもむくことはかなわず、獄舎に直行させられた。  いかにいろいろ説得をこころみても、クファがいるかぎり、どんな話も|詐《さ》|欺《ぎ》|師《し》の手だと決めつけられたのである。  町並みと同様、牢獄も地味にはほど遠かった。  |格《こう》|子《し》入りの窓は高いところにひとつしかないが、そのかわりのように、壁には大きな太陽が描かれていた。  黄色と|橙《だいだい》をうねうねと塗りたくった太陽は、|稚《ち》|拙《せつ》なりに迫力があった。  鉄輪や|鎖《くさり》にはつながれず、吊り寝台や生活用具は清潔にそろっているところを見ると、牢獄としても上等の部類のようだ。  もしも本当の使者だった場合を考え、あまりひどいあつかいはやめたようだ。 「すぐに出してもらえますよ、誤解がとけて」  壁の太陽をながめながら、エリアードは吊り寝台に足をのばした。  連行される途中、彼は衛兵の隊長格の者に軽い暗示をかけておいた。  一対一で、まわりが静かでないとなかなかかかりにくいものだが、意識のどこかにとどめることぐらいは相手によって可能だ。  さいわい隊長は彼に関心を持っていた。何かとそばに来たがったし、部下の目を盗んで話しかけてきたりした。  その機会を利用して、エリアードは使者の指輪を隊長に渡し、皇帝に近い者に見せてくれるよう頼んだ。  表向きは頼んだのだが、くりかえし暗示をかけ、見せずにいられないよう仕向けてた。 「グリフォンの野郎がもどってくるのと、誤解がとけるのはどちらが早いかな」  皇帝に預かりものを渡し、グリフォンと会わないうちに逃げだすつもりだったリューは|苛《いら》|立《だ》っていた。  宝は無事だった。商人ふうの剣は取られたが、|腰帯《ベ ル ト》に結びつけてある|鉛《なまり》はそのままだ。  誰もそれが重要なものだとは思わず、腰帯の飾りだと見すごされたのだ。セレウコア人の飾り好きが幸いしたらしい。 「ほら、もう来たようですよ、お迎えが」  エリアードは寝台から飛びおりた。  |鉄《てつ》|格《ごう》|子《し》をへだてた通路の向こうから、足音が聞こえてきた。 「申しわけございません、重大な手ちがいがありましたようで」  着飾った壮年の男が、鉄格子の前で頭をさげた。牢番の兵が急いで、|鍵《かぎ》|束《たば》の鍵をさしこんでまわす。 「皇帝には会わせてもらえるのか」  |虜囚《りょしゅう》とは思えない口調で、リューは問いかけた。腰を低くしていては甘く見られると、彼は尊大に一同を見おろした。 「おお、もちろんでございます。あなたさまのおいでを心待ちにしておられます」  |透《す》かし模様入りのひらひらした上着の男は、そろいの派手な布であぶらぎった|額《ひたい》をぬぐった。 「それでその……まことに勝手なお願いではございますが、あの、殿下にはこの手ちがいの件を、なにとぞ内密にしていただければとお願いしたい次第でございまして——何も知らぬ者のしでかしたまちがいでございますゆえ」 「|詐《さ》|欺《ぎ》|師《し》と決めつけられて、まともに話も聞いてもらえなかったのだがな」 「お腹立ちはごもっともでございます。すぐに|減《げん》|俸《ぽう》処分にし、北西の激戦場にでも飛ばしますゆえ、ひらにひらに、お許しを」  迎えにきた壮年の男は本心からふたりを使者と信じ、うやまっているようだった。 「グリフォン殿はもうお帰りか」  さりげなくリューは尋ねた。 「は、どなたでございますか」  壮年の男はけげんそうな顔をする。 「皇帝の信頼厚い観相師だよ。銅色のふさふさした髪の、やたらと身体と態度のでかいやつだ。サライ河を金ぴかの船で渡ろうとしたところではぐれたんだが」 「ああ、わかりました、あの方なら都入りなさったという報告はございましたから、そろそろおいでになるかと存じます」 「すぐに|謁《えっ》|見《けん》させてくれ、皇帝はお待ちになってるのだろう」  リューは男をせきたてた。グリフォンと|鉢《はち》あわせしたくない一心で。  それから皇帝の待つ|歓喜宮《かんききゅう》にたどりつくまでが、また長かった。早く用事をすませたいと気がせいていたリューには、とくに長く感じられた。  いくつかの検問をへながら、石段を並んでのぼる必要はないにしろ、小高い台地の、そのまた一番高いところにある宮殿までは距離がある。  鳥や獣の彫刻をほどこされた門と、大輪の花と|蔓《つる》|草《くさ》模様をあしらった門と、半裸の美男美女がからまりあった浮きぼりの門を通りぬけ、噴水つきの庭園をいくつか横切り、やっと威容をほこる歓喜宮が視界に入った。  もう夜も遅いはずだったが、中は不夜城のごとく赤々と|松明《たいまつ》がたかれ、着飾った宮廷人と派手な制服の衛兵が行き来していた。  ときおり彼らはふたりを盗み見していたが、礼儀をたもち、無関心なふりで通りすぎた。  宮殿は丸い円盤形の屋根と、先のすぼまった筒形の建物が組みあわさった造りで、壁は|極彩色《ごくさいしょく》に塗りたくられ、彫像や飾り模様がおびただしくついている。  材質が安物やまがい物なら、歓楽街と勘ちがいされてもおかしくないほどだ。 「何もグリフォンの野郎が特別ってわけじゃないな。やつはこういうのを見て育ったんだ」  リューは相棒にささやいた。 「荒れ地のただ中にある町が派手な色彩を好む、というのは聞いたことがありますが、ここはかなり西で、緑も豊かなはず——目がちかちかしますね」 「宮殿がこれなら、本物の歓楽街はどんなものかな。ひまがあったらのぞいてみよう」 「ちゃんと約束をはたしてからの話ですね」  もうやるべきことが終わったような気分になっている彼に、エリアードはやんわりと|釘《くぎ》をさした。  宮殿内も趣味の悪さは外見を裏切らず、薄桃色や紅色の薄幕が|蝶結《ちょうむす》びになって上からさがり、壁は金と赤の|菱《ひし》|形《がた》模様だった。  調度類も立派といえば立派だが、装飾過多で実用に耐えるのかと思うようなものばかりだ。  奥の間や、皇帝自身もこれに輪をかけたものだろうと|覚《かく》|悟《ご》しながら、ふたりは歩を進めていった。  セレウコアの皇帝とおぼしき人物は、赤い|繻《しゅ》|子《す》に花を散らした壇上の、金ぴかの玉座にいた。  薄紅の垂れ幕が高い天井から幾重にもかかり、革の編みあげ靴をはいた足しかおがめなかった。  両側に整列していた家臣たちは、ふたりが入っていくと波が引くように道をあけた。  ざっと見まわしたところ、グリフォンらしい姿はなく、リューは安心した。  つぎはぎの|外《がい》|套《とう》をまとっていたが、金赤の|絨毯《じゅうたん》を歩む彼はみすぼらしい放浪者には見えなかった。  決めるところは決めようと、彼は姿勢をただし、頭を|昂《こう》|然《ぜん》ともたげて進んだ。  昔に慣れしたしんだ作法の知識もよみがえって、彼の仕草は自然と優雅で高貴なものになった。  そのあとからついていくエリアードも、その生来の美貌と、|毅《き》|然《ぜん》とした態度で目を引いた。  日よけのフードをはずした金と銀のふたりは、おおむねよいほうに関心を集めたようだ。  少なくとも、皇帝がなぜこんな異邦人を歓迎するのかと、いぶかしむ|雰《ふん》|囲《い》|気《き》はなかった。珍しいものや|華《はな》やかなものを好む宮廷人の目にかなったのである。  皇帝のいる壇からはやや離れたところで、ふたりは足どめされた。  |槍《やり》を交差させた近衛兵が、皇帝の護衛のために進みでた。  薄幕の向こうから、皇帝は身を乗りだし、彼らをながめているふうだ。無礼な応対ではなく、それがならわしのようだった。 「使者のしるしの指輪は確かに受けとった。わたしが手ずから、信厚い商人に託したものにまちがいない」  豊かな若々しい声で、皇帝は告げた。幕の下からのぞいている足から見ても、皇帝はそれほどの歳ではないようだ。  セレウコアの皇帝について、これまでリューは具体的に何も聞いてなかった。  その名は何度も口にのぼったが、どのくらいの年齢で、どんな風貌なのかはあまり伝わってこなかった。外交の手腕にたけ、平和を好み、東のタウとの不穏な状態を見事に解決した英明な君主だと耳にしていただけである。 「お初にお目にかかります、皇帝陛下」  リューは胸に片手をあて、もう片方の手を広げ、優雅に一礼した。略式だが、敬意のこもったものだった。 「わたしたちふたりは、クリブの近くの荒れ地で死にかけていたところを、ハルシュ老の率いる隊商に救われました。それからともに行動し、シェクからアルルスに向かう旅の途中で盗賊団の夜襲をうけ、偶然にもその夜そばを離れていたわたしたちと、もうひとり盗賊団を手引きした者とが生き残りました」  よどみなくリューは語りだした。  礼儀をわきまえ、しかも皇帝の前で少しも臆した様子のない彼に、家臣や宮廷人たちは見直したようにささやきあっていた。 「|瀕《ひん》|死《し》の状態だったハルシュ老から、わたしたちは皇帝陛下に届けなければならないという宝と、使者のしるしの指輪を託されました。ハルシュ老は命の恩人でもありますから、わたしたちもかならず代わりに届けると約束しました。老人はわたしたちを信頼してくれた様子で、安らかに永眠しました」  まわりが静まりかえったので、リューは気分よくつづけた。グリフォンに護衛されながら、|謁《えっ》|見《けん》におもむかなくてよかったとあらためて思った。 「けっして楽な道とはいえませんでしたが、なんとかわたしたちは老人との約束をはたし、皇帝陛下のもとまでおもむくことができました。途中で盗賊団の手引きをした裏切り者を見つけることもでき、隊商のかたきをとってやることも、幸いにしてかないました」  皇帝は興奮か感動をおぼえたふうに、玉座から立ちあがった。  うまく話しすぎたかとリューはやや反省した。 「託された宝はここにあります。わたしたちはよけいな好奇心をおこさないほうがいいと判断し、これがどのようなものかまったく存じません。|鉛《なまり》にくるまれたままの形でお渡しします」  |鎖《くさり》の輪をねじってはずし、リューは手のひらに|雫形《しずくがた》の鉛をのせた。  近くに控えていた重臣らしい老人に、彼はそれを手わたそうとした。  白銀の髪と|髭《ひげ》をたらした老人をよくよく見て、彼の足はとまった。  サライ河のほとりの宿で夢に見た|僧《そう》|侶《りょ》と、その老人はよく似かよっていた。顔の半分をおおう髭がなければ、そっくりだったかもしれない。  それだけならただの夢の記憶で、驚くほどもなかった。  しかし、目の前の老人の不思議な色の眼は赤くなり、涙がたまっていた。懸命にこらえていたので、近くで見なければわからなかったが、老人は泣きむせんでいた。  リューは老人から目をそらした。やっかいごとの前のいやな予感が|渦《うず》まいた。  老人はハルシュ老の知りあいか何かで、その|最《さい》|期《ご》の様子を聞き、涙ぐんだのだと、彼は解釈しておくことにした。  どちらにしても、彼は鉛を渡したら、その足で宮殿をあとにする気だった。  無礼かとも思ったが、リューは衛兵の|槍《やり》をくぐり、前に進みでた。こうなったら、皇帝に直接渡してしまおうと。  衛兵はあわてて彼を押しとどめようとした。家臣たちもざわめきはじめる。 「さがれ、かまうな」  垂れ幕の向こうから、皇帝が命じた。 「受けとっていただけますか、皇帝陛下」  あくまでていねいにリューは問いかけた。 「もちろんだ、そなたの労は存分にねぎらう価値のあるものだ。わたしが手ずから、受けとることにしよう」  皇帝は垂れ幕の中から歩みでた。  |謁《えっ》|見《けん》の場で皇帝が姿を見せるのはごく異例のことらしく、居ならぶ家臣たちはあたふたとひざまずいた。  これまでまったく動じなかったリューだったが、その姿には思わずあとずさりした。  重臣の涙に出会ったときの驚きなど、これに比べたらささいなものだ。  控えていたエリアードは、どうしたのかと心配して歩みよった。しかし彼もまた、驚いて声をあげた。  皇帝は長身で、羽根飾りのついた部屋着をゆったりまとっていた。金の小冠をつけた豊かな髪は|鈍《にぶ》い赤で、きれいな巻き毛にととのえられている。  その大づくりな目鼻立ちは、彼らふたりにとっては忘れられない男の顔にそっくりだった。  よくよくながめれば、まちがえるほど似かよってはいなかったが、そのときの彼らは、グリフォンその人が皇帝の姿で現れたような|錯《さっ》|覚《かく》にかられた。  リューはもう少しで、よくもだましたなと皇帝に殴りかかるところだった。本当にあぶないところで。 「——グリフォン……殿じゃないのか」  かろうじて自分を押しとどめ、リューは小声で尋ねた。 「そんなに驚くほど、あれに似ているか」  皇帝はおもしろそうに問いかえした。  その言い方も|声《こわ》|音《ね》もグリフォンのものではなく、皇帝らしい威厳のあるものだ。 「似ている、他人の空似とは思えないほどだ」  リューはつぶやいた。 「他人ではない、あれはわたしの腹ちがいの弟だ——当人は観相師の資格を得たことで、肉親の縁を断ったと主張しているがな」 「弟……セレウコア皇帝の……?」 「正式にはグリフォールという——けしからんやつだな、そなたたちを警護するというので兵を貸したのだが、自分の身分もあきらかにしてないのか」  皇帝はこらえきれず笑っていた。臣下の手前、大笑いできないのがつらそうだ。  本来は陽気で気さくな人柄らしい。 「まだ名のってもいなかったな、わたしはルイフォールという。セレウコアの古い言葉で〈太陽〉の意だ——グリフォールのほうは、わたしと対になる〈月〉の意だよ。あれの母親の出自にもかけた名だ」  皇帝は壇を降り、彼らふたりの前に立った。  他の者たちは床にひれふしていた。|謎《なぞ》めいた老人も頭を垂れたままだ。 「まずはそれを受けとろう、まことにご苦労であった」  落ち着かせるように、皇帝は言った。豊かな声量の、命令に慣れた口ぶりである。  見かけは似ていても、グリフォンとはそのあたりが決定的に異なっていた。  リューは皇帝に心からの敬意を感じ、ふたたびていねいに一礼した。  そして長いあいだ持ちあるいた|鉛《なまり》の固まりを、彼は皇帝にうやうやしく手わたした。  皇帝が鉛を握りしめると、リューはほっとした。  これでハルシュ老との約束は果たし、彼らのやっかいな使命も終わったのである。  グリフォンの正体など、次第にどうでもよくなってきた。皇帝の弟だろうが、|従弟《い と こ》だろうが、彼らふたりには関係ないことだ。 「ではこれで、わたしたちは失礼します。グリフォン、いやグリフォール殿にもよろしくお伝えください」  用はすんだとばかりに、リューはすぐにも退出しようとした。  皇帝は一瞬、大きな眼を丸くした。だがしばらくして|合《が》|点《てん》がいったように、両手を打ちあわせた。 「おお、気がきかなくて申しわけない。お客人は疲れているのだな。すぐにも部屋を用意させよう——人ばらいし、ゆっくりわたしの私室で、酒をくみかわそうと思っておったが、明日にのばしたほうがよさそうだな。遠慮せずともよい、長旅のあとだからそれも当然であろう」 「いや、皇帝陛下、われわれは……」  誤解をとこうと言いかけて、リューはその先をのみこんだ。  |謁《えっ》|見《けん》の間の|扉《とびら》が大きくひらき、二度とは見たくなかった長身の姿が現れた。  グリフォンと会いたくないというのが、すぐにでも退出しようとした理由の半分だったので、彼はつづける気力を失くした。 「ちょうどよいところに、弟がもどってきたようだ。弟の護衛とそなたたちがはぐれたと報告を聞き、案じておったが、双方とも無事にわがもとへ到着してよかった」  皇帝は喜んでいたが、リューはため息をついた。  退出はままならず、グリフォンと向きあうのも避けられそうになかった。     7章 奇跡の石  ふたりはいやおうなく、豪華な部屋に連れていかれた。  いくらぜいたくな部屋であっても、彼らにとっては|牢《ろう》|獄《ごく》と変わりなかった。  とらえておこうという悪意はないにしろ、彼らを宮殿から出すことなど皇帝は思ってもみないようだ。  そこもまた、宮殿内のほかの間と変わらず、飾りたてた品のない部屋だ。  彩色した羽根が壁一面を飾り、その上から薄桃色の薄幕が飾り結びになっている。  部屋はやたらと広く、控えの間ほどの大きさがある金ぴかの|天《てん》|蓋《がい》つきの寝台が奥を占めていた。  |燭台《しょくだい》の色も薄桃に塗られ、壁の薄幕をゆらゆら照らしていた。  そんなとんでもない寝台に近づく気はおきず、リューは比較的装飾の少ない|長《なが》|椅《い》|子《す》に寝ころがっていた。  あてがわれた部屋着は花嫁衣装かと見まがうもので、ふれるのもいとわしく、彼は|埃《ほこり》っぽい|外《がい》|套《とう》をまとったままでいる。  エリアードは|覚《かく》|悟《ご》を決めて、部屋のあれこれを観察していた。  彼のほうはずいぶん慣れてきて、多少趣味が悪くても派手なほうがいいと思いはじめていた。 「湯あみくらいはことわるんじゃなかったな。河に落ちて以来、身体を洗ってませんから」  相棒に元気を出させようと、エリアードはわざと挑発した。 「冗談じゃない、グリフォン殿とごいっしょにとでもいうことになったら、どうするんだ」  口だけは威勢よく、リューは毒づいた。 「そんなに|毛《け》|嫌《ぎら》いしなくても——|噂《うわさ》をすれば、当人が現れるともいいますよ」  足音に耳を澄ませ、エリアードは注意した。  言いおわらないうちに取り次ぎの|小姓《こしょう》が|扉《とびら》をたたき、グリフォンの到来を告げた。 「ほらね、来たでしょう、来るころだと思ったんです」 「その勘を生かして、予言者にでもなったらどうだ」  疲れをおぼえ、リューは弱々しく応じた。  グリフォンは足音高く、|大《おお》|股《また》に踏みこんできた。  兄にこれまでの報告をすませ、それからすぐにやって来たらしい。わずかに息を切らしていた。 「あなたがたが無事でよかった。河をさらって捜させても見つからないときは、もしや|溺《おぼ》れ死んだんじゃないかとひやひやさせられたぞ。都で見かけたと部下から聞くまでは、とても手ぶらでは帰れまいと真っ青だった」  あいかわらずせかせかした様子で、グリフォンは部屋を歩きまわる。 「それは申しわけなかったな、一刻でも早く皇帝のもとへおもむくべきだと思ったんだ——グリフォン殿、いやグリフォール殿下だったかな」  よくも隠していたなと|嫌《いや》|味《み》をまじえ、リューは正式な名を呼んでやった。  グリフォンの表情は、見てわかるほどしぶいものに変わった。 「呼ばないでくれ、その名を——以前のように、グリフォンと呼んでくれないだろうか。観相師の上級となってからは、生まれも身分も捨てたのだ」  どこかで聞いたようなやりとりだと、エリアードは我慢できずに吹きだした。  話している本人たちは気づいてないようだったが、ほとんどそっくりの会話が立場を逆にしてかわされたことがあった。 「何がおかしいんだ?」  ふたりはほとんど同時に尋ねた。  その息のあった尋ね方も、エリアードの笑いをさそった。 「どうしてグリフォンなのですか、|幻《まぼろし》の獣にそれほど愛着があるんですか」  本当のことを言うと怒りをかいそうなので、エリアードは話題を変えた。 「——|亡《な》き母上が、幼いわたしをそう呼んだからだ、グリフォールでは子供にとって呼びにくいと、宮殿の壁画にあった獣の絵にちなんで」  さすがにやや恥ずかしそうに、グリフォンは告白した。 「あなたの母上は、セレウコアの前皇帝に|嫁《とつ》いだというわけなんですね。以前にその話を聞いたときには、裕福な商人くらいにしか考えてなかったのですけれど」  相棒が茶化す前に、エリアードは話を先どりした。このあたりのことは、もう一度確認しなければならないことだ。 「そうだ。|皇《こう》|后《ごう》がまだ健在だったゆえ、母上は|側《そば》|女《め》にすぎなかったのだ。異邦の出自もわざわいして、母上は亡くなるまで妃のひとりとしても認められなかった——隠しているつもりはなかったが、言いたくなかったのだ、母上が気のどくで——特に身内にあたるリューシディク殿には」 「勝手に身内にしないでくれ、わたしは顔も知らないんだ」  リューは横を向いた。  その冷ややかな態度に、グリフォンの表情もこわばった。 「肖像画がひとつだけ、わたしの部屋に飾ってある。淡い純金の髪と|臈《ろう》たけた白い|肌《はだ》で、あなたにどこか似かよっている——兄上もしみじみと言っておられた。あなたをまのあたりにして、何年ぶりかでセレナーン姫を思い出したと」 「だからなんなんだ、グリフォール殿下——あんたがわたしをあくまでリウィウスの王子としてあつかうなら、こちらもそう呼ばせてもらうぞ——あんたたちの目的はなんだ。わたしをその不幸な身内の姫君のように、セレウコアの宮殿で飼い殺しにするつもりなのか」  これまでのようなふざけ半分ではなく、リューは本気で|牙《きば》をむいた。  グリフォンはその剣幕に驚き、ひどい言われように浅黒い|頬《ほお》を染めた。  今度はとめられそうにないと、エリアードはあきらめて引きさがった。避けて通れない道かもしれないと。 「わたしたちの役目は終わったんだ、もしそのつもりでないなら、明日にでも快く送りだしてくれないかな。できたらナクシット教団の手が届かない、南の海にでも」  少し言葉をやわらげたが、険しい顔つきのままでリューは告げた。 「——それは、できない」  負けじとグリフォンはこたえた。 「では、できないわけを聞かせてもらおう。あんたはあの|女泥棒《おんなどろぼう》にいろいろしゃべったそうじゃないか、わたしたちに教えてもいないことを——あんたは隊商から託された宝がなんなのかも知ってるらしいな、その使い方も、その真の価値もだ。よけいな好奇心はおこすまいとしたが、われわれを解放してくれないとなれば尋ねざるをえない。あんたたちはあの宝とわれわれをどうするつもりなんだ」  リューは|長《なが》|椅《い》|子《す》から起きあがり、しゃんと座りなおした。 「今夜のあいだに表面の|鉛《なまり》を溶かしてしまうつもりだが——あれは石だ。貴重な、ふたつとない。特殊なある材料を、タウの優れた職人が加工した、奇跡に近い石なのだ」 「大げさだな、要はわれわれと関係があるのかないのかだ」 「あるといえばあるし、直接はないのかもしれない——しかし見ているかぎりは、少なくともあなたにはあるようだ、リューシディク殿。あの石は引きよせられるべく、あなたのもとにとどまり、予言された奇跡の一部をかいま見せた。だからわたしも、あれをあずかろうとはしないで、危険を承知しながら、あなたに持っていてもらった」 「奇跡——?」  部屋を|徘《はい》|徊《かい》し、髪をかきあげるグリフォンを、リューはあきれたようにながめていた。 「確かに奇跡は二度、起きた。最初はクナの|廃《はい》|墟《きょ》だ。あなたは雨雲とともに隊商を呼びよせた。石はあなたを見いだし、あなたに反応したのだ。わたしの観相板は不可思議な動きを見せた。そのときはなんの力が働いているのかわからなかったが——二度めはもっとはっきりしている。宿の火事で、石はまたあなたに反応し、また雨雲を呼びよせた。  あなたは偶然に助かったと思っているかもしれないが、このあたりは雨期でもなければ、めったに通り雨は降らない。年に二、三度しかない通り雨が、あなたのいる区域だけに、それもひと月たらずのあいだに二回も降るなどということは、偶然ではとてもありえないのだ」  グリフォンはいっきに語った。 「わたしに|魔術師《まじゅつし》の素質があるとでも言いたいのか、馬鹿馬鹿しい」  リューはまったく相手にしてない。  しかしエリアードは|魔術《まじゅつ》の領域に通じているだけに、はっとしてグリフォンを見つめた。 「魔術のわざとはちがう。白魔術でも黒魔術でも、乾燥した地域に雨雲を呼びよせるなどという芸当はできない。せいぜいが|幻《まぼろし》の|稲光《いなびかり》を降らせるくらいだ」 「ならばあんたの考えすぎだ、単なる偶然だろう」  またうんちくをかたむけそうな気配に、リューはいそいで口をはさんだ。 「あなた個人の、つまり人のなせるわざではないということだ——あれは石に秘められた力だ。それがあなたによって表に引きだされたのだ、ごく短いあいだに二度も」 「それが予言された奇跡とやらか。魔術師には|誇大妄想狂《こだいもうそうきょう》が多いらしいが、あんたもその口かい」  平然とリューは応じた。  ひどい言われように、さすがにグリフォンもかっとした様子だった。 「石とは、正確にはどのようなものですか。特殊な材料から精製したとおっしゃいましたが——あいまいな言い方は、もうよしてくださいよ。わたしたちを事実上の|虜囚《りょしゅう》とするからには、あなたも知っていることをすべて話すべきだ。まだはっきりしないとかの言いわけは、やめてください」  エリアードがあとを受けた。相棒に応対をまかせていては|喧《けん》|嘩《か》になるばかりで、肝心なことを聞きだせそうにない。  しばらく考えこんでいたグリフォンは思いきって口をひらいた。 「材料は、つまり原石だが——ある東から来た隊商が、一年ほど前にもたらしたものだ。内側に七色の光を封じこめたような不思議な石で、珍しもの好きの皇帝が喜ぶだろうと宮殿に献上された。  皇帝は気に入り、隊商にほうびを与えた。原石はこの台ほどの大きさで、皇帝は脚をつけて卓にでもするつもりだった」  |長《なが》|椅《い》|子《す》のそばにある丸い卓を、グリフォンはしめした。あまり大きなものではなかったが、|鉛《なまり》の固まりの何十倍はあった。 「ちょうど放浪の旅からもどってきたばかりのわたしは、その原石に興味をひかれた。母上が大事に持っていた小さな石の破片によく似ていたからだ。大きさはけた違いだったが、色あいといい、光り具合といい、こんな石がほかにふたつとあるわけがないと思えた」 「興味深い話だが、よければもう少し|割《かつ》|愛《あい》して、要点だけ話してくれないか」  つい黙っていられずリューは口を出したが、エリアードが目顔で押しとどめた。 「悪いが、こうした質なので、かいつまんで話すということが|苦《にが》|手《て》なんだ」 「かまわないから、つづけて話してください。母上がお持ちになっていた石がなつかしかったわけですか」  |辛《しん》|抱《ぼう》|強《づよ》く、エリアードはうながす。 「なつかしかったからだけではない。母上はその石の破片を、故郷の一部だと言っていたからだ、砕けた三番めの月の破片だと」  いいかげんに聞いていたリューは、相棒と顔を見あわせた。  この地につづいていた青白い園を抜けたとき、彼が手にした小さな石のことがよみがえってきた。  その石は耳飾りに細工して、リューはしばらく身につけていた。ふとしたいきさつで、一年ほど前に手放してしまったが。 「母上の言葉をそのまま信じていたわけではなかったが——」  グリフォンはふたりの反応を見つめながら、つづけた。 「わたしはその隊商の|行《ゆく》|方《え》を追った。隊商の長は幸い、まだ都下にとどまっていた。本当のことがばれると、皇帝からの|褒《ほう》|美《び》が取りあげられるかと思ったのか、なかなか白状しなかった。わたしはかなり手荒に、どこから持ってきたのかを問いただした」 「どこにあったのですか」 「クナの|廃《はい》|墟《きょ》の大穴の底にあったそうだ、泥水の中に埋もれて——あの穴にたまる水は、万病に効く水薬として売られていた。はたして本当に効果があったのかどうかはわからないが、以前からそう信じられてきた。  その東方の隊商も旅のついでに立ちより、底の水を汲もうとして、偶然に石を見つけたそうだ。かなり重かったが、セレウコアの皇帝が喜びそうだと考え、無理して運んできたという」  実際に、クナの大穴を通りがかったことのあるふたりは驚いていた。  あの穴は三番めの月の破片が落ちてきた場所かもしれなかった。クナを滅ぼした月の|乙《おと》|女《め》の伝説が、それを暗示しているのではないかと、ふたりも前に考えたことがあった。 「もしや月の破片かもしれないと、わたしは皇帝を説得し、石の強度や組織構成をできる限りの方法で調べた。信頼できる|白魔術師《しろまじゅつし》の力も借りて、分析もした——その結論は、石はこの地上にあるどんな石とも異なっており、いちじるしく密度が高く、|金《こん》|剛《ごう》|石《せき》に|匹《ひっ》|敵《てき》するほど|頑丈《がんじょう》だということだった。  同時に、石が不思議な力を発散しているらしいこともわかった。穴にたまった水が薬として売れたのは、この石の力にふれたせいではないかとも」 「よくも黙っていたな、それだけの話を、まだはっきりしないとかごまかして」  小声でリューは文句をつけた。 「申しわけない——この話を聞けば、あなたが手を引くのではないかと思ったからだ。白紙の状態で、あなたに石を持っていてもらいたかったせいもある」 「話をつづけてください、原石を調査してどうしたのですか」 「わたしにわかったのはそれだけだ。三番めの月の破片だと思われるが、証明できるだけの材料はなかった——調べていくうちに、わたしはむしろ、石の出どころよりも、それの有する力のほうに興味をひかれた。魔術にからむ力とは異なり、わたしの観相板に、それはごくゆるやかな波動をえがいた。  いろいろ実験をくりかえし、その力が何をもたらすかひとつだけわかった。水薬が売れたように、石には|癒《い》やしの効果があった。実験で腕にひどい|火傷《や け ど》を負った白魔術師が、石の近くで一日すごすと、痛みがやわらいだ。それから数日で、|醜《みにく》い跡も残らず、火傷は直った」  グリフォンはそこで言葉をきった。  ふたりの視線は、彼に|釘《くぎ》づけとなっていた。 「しかし、その先は進展もなく、半年ほど時がすぎた——新しい展開をもたらしたのは、タウから友好のしるしとして訪れた腕のいい職人だった。タウは魔術師ギルドに加盟していない国で、あらゆる魔術が国によって禁じられている。その代わりとして、|錬金術師《れんきんじゅつし》や一部の医師や職人が似たような役割をになっているのだ。  |歓喜宮《かんききゅう》に滞在したその職人もそうしたひとりで、石を細工するにかけては当代一の腕をもっていた。そのあたりに落ちていた石ころから水晶の結晶を取りだし、うるわしい|乙《おと》|女《め》の像を即興で刻んだり、宮殿の壁から古代の化石を掘りだしたりして、みなを喜ばせていた」 「その職人に原石を見せたのですか」  話を進めるべく、エリアードは合いの手を入れた。 「人柄を観察し、信頼できると確信してから、地下に安置してあった原石に案内した。タウの石職人も、石はこの地上のものではありえないと断言した。職人の見立てでは、石の中心には核のようなものがあり、それを取りだせば、もっと確かなことがわかるのではないかということだった。  ぜひそうしてほしいと頼んだが、職人は自分の工房にある|炉《ろ》や道具を用いなければ無理だと答えた——わたしは皇帝と相談し、その職人に原石を預けることにした。職人は高位の|魔術師《まじゅつし》によくあるように、みずからの腕や研究を高めることだけに全精力をかたむけ、世俗のことにはまったく関心のない型の人物だった。職人自身も原石には強い関心をもち、|報酬《ほうしゅう》すらことわったほどだ」 「それで原石はタウまで運ばれたと」 「途中までは、わたしが護衛をつとめた、タウの西の入り口トキまで。原石は厳重に包装し、丈夫な|砂《すな》|馬《うま》の背に乗せて運んだ——そのころはナクシットの徒もそれほど活発に活動していず、旅は平穏なものだった。ふた月したら取りにいく約束で、わたしは職人と別れた」 「なぜ取りにいくのは、ハルシュ老にやらせたのですか。あなたが行けばいいのに」 「いったんわたしが都にもどると、とてもそれどころではなくなっていたのだ。ベル・ダウの山奥や、町の片隅の分教所でおとなしく祈りの文句を唱えているしか能がないと思っていたナクシット教団が、何をとち狂ったのか、セレウコアの北西部に攻めこんだんだ。それも信じられないほどに勢力を拡大して——北西の村をいくつか占領した連中は、これは聖なる予言による聖戦だと回答してきた。皇帝は兵を送ったが、いかなる方法をもちいてか、占領された村人たちを信者にしてしまった。  小さな戦いは起こったが、そうしたわけでナクシットの徒を追いはらうことがむずかしくなり、今の|膠着《こうちゃく》状態にいたっている」 「ナクシット教団の野心については、このあいだも聞きましたね。セレウコアの領土に野心を持っているわけですか」  あまり話がそれないよう、エリアードは言葉をはさむ。 「皇帝に依頼され、観相師としてわたしは、ナクシットの狙いを調べなくてはならなくなった。その関係上、わたしの動きはナクシットから目をつけられることになり、とても内密にタウまでは行けなくなった——それでわたしの代わりとして、目立たないよう任務を遂行でき、信頼に足る人物という条件で、ハルシュ老がタウ行きに選ばれたのだ。  もともと老人は、タウとセレウコアを行き来する隊商の長であり、不自然ではなかった。都の商工所でも地位があり、誠実で|寡《か》|黙《もく》な人柄は確かだ。皇帝が内々に呼びよせて、使者の指輪を渡し、老人の隊はさっそくタウに向けて出発した——以前にも話したように、わたしは|遡及《そきゅう》のわざを駆使して、ハルシュ老の隊商の動きを追いつづけていた。  隊商は無事にタウまで到達し、職人から精製した原石の核を受けとった。わたしが頼んだように|鉛《なまり》でくるんであったこともあり、ハルシュ老はいったいそれがなんなのかは知らなかったはずだ。老人はよけいな疑問はもたず、ただ皇帝から与えられた使命を忠実にはたしていた」 「タウからの帰り道で、わたしたちが合流したわけですね。ハルシュ老はわたしたちのことを、予言で知ったといっていました。タウの予言者の言葉だそうで——」 「黒雲の|導《みちび》くもとで、金銀ふたつの月を見つけよ。旅の成功には、それらを断じて手放すな、とかいうものだ」  リューがあとを受けた。予言の話を聞かされた、美しい壁掛けのある宿の部屋がありありとよみがえってきた。 「石の核が——わたしは|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》と名づけたが——雨雲を呼び、それによって、あなたたちのもとに隊商を呼びよせたのだ。引きつけられるべくして——場所も、もともと月炎石があった|廃《はい》|墟《きょ》の近くだ。あたり一帯に磁場のようなものがあるのかもしれない」 「なぜですか、わたしたちがその砕けた三番めの月から来た異邦の者だからですか」 「それがもっともわかりやすい説明だろう。他にも〈月の民〉はいるが、月炎石と廃墟の近くにいたのは、あなたがただけだったということもあるかもしれない——あなたがリウィウスの王族の直系であることも、関係しているのかもしれない。  母上から聞いた話では、リウィウスの王家はかつて、大地の実りを約束する祭司の家系だったということだ。月炎石が砕けた月の破片ならば、もともとは月の大地の一部にちがいないゆえ」  グリフォンの大きな眼に見つめられ、リューは|眉《まゆ》をしかめた。またいやおうなく過去がかかわってくるのかと、彼はしぶしぶ|覚《かく》|悟《ご》を決めた。 「予言された奇跡とはどのようなものです。その月炎石ですが、それは雨雲を呼ぶ力があるわけですか」 「正統なる持ち主を見いだせば、月炎石は地をゆるがし、天を動かすだろうと、ある予言者が告げた。ハルシュ老がタウに向けて旅立ったあとに」 「とたんに話が大きくなるな、|癒《い》やしの力を持つ石ならまだわかる。そんなたぐいのまじない石は、ほかでも見たことがあるからな——しかし石の核を精製したというだけで、天を動かすとか、そんな急に力が飛躍するものなのか」  |魔術《まじゅつ》めいた力にほとんどふれたことのないリューは、ごく常識的に尋ねた。 「わたしの仮説だが、月炎石は砕けた月の一部でありながら、この地に引かれて落ちてきたのだ。クナの都を一日で|灰《かい》|塵《じん》に化したときには、すさまじい火炎につつまれ、大穴の底で燃えつづけたにちがいない——二百年の後に見つけられたときにはすっかり冷えて固まっていたが、月のもたらした炎の力の記憶を核に封じこめてある。それはかつて、この地に引きよせられ、この地の底に秘めた同じような力と共鳴したこともあるものだ。  もしそれが解放されるなら、地をゆるがし、天を動かすというのも大げさなことではない」 「|誇《こ》|大《だい》|妄《もう》|想《そう》という評価は取り消せないな。特に自分がかかわっているとなれば、なおさらだ」  また冷ややかになった金の眼で、リューはグリフォンをにらみつけた。 「理解できたこともある。あんたはわたしに石を持たせて、実験していたんだな。その奇跡とやらが起きるかどうかを——石を受けとるだけでなく、われわれをセレウコアの|虜囚《りょしゅう》にしたわけもわかった。石で奇跡を起こすのには、あんたの仮説にしたがえばだが、わたしの存在が必要だからだ。  ナクシットにとって、〈月の民〉が障害となるというのもおぼろげながらわかってきた。敵対するセレウコアが奇跡めいた力を得れば、連中の野心の|妨《さまた》げとなるだろう。実際に力がふるえないとしても、十分な|脅《おど》かしにはなる」 「あなたの指摘はある意味で当たっていないことはないが、わたしはけっしてあなたを利用するつもりはない。あなたは今のところ、セレウコアの保護下にいるのがもっとも安全だ。ナクシットの|輩《やから》に殺されるのなら、多少はあなたに|恨《うら》まれても、虜囚になっていただくのが正しい道だと信じている。  実験したのは、純粋に|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》の持つ力を見きわめたいからだ。わたしはタウの職人と同様に、月炎石の力をいかなる世俗の権力のためにも用いる気はない、祖国のセレウコアであってもだ」  熱をこめてグリフォンは語った。しかしリューは冷笑で応じた。 「浮き世ばなれした皇弟殿下の理想を聞いていても仕方がないな。セレウコアという国が動き、ナクシットという新興勢力がからんでいるいじょう、あんたの並べた|御《ご》|託《たく》は、現実ばなれしたきれいごとだ。まず第一に、あんたの兄上がそうは考えないだろう」 「違う、この件に関しては兄上でも口は出させない。月炎石はわたしが研究しつづけてきたものだ、あなたがたを見いだしたのもわたしだ、兄上じゃない——たしかに兵は借りたが、それはナクシット教団の動きを追う観相師の権限を越えたものではない」  グリフォンは浅黒い顔を紅潮させて、|長《なが》|椅《い》|子《す》のリューにつめよった。今にも|侮辱《ぶじょく》の報復として突きだしそうなこぶしを、彼はかろうじて背後に引っこめた。 「月炎石の奇跡を予言したというのは、どんな予言者ですか。あなたはあまり予言のたぐいには重きをおかないと、前には聞きましたが」  |仲裁《ちゅうさい》するように、エリアードは割って入った。口をはさむべきタイミングが、彼には少しずつわかってきた。 「ギルドに登録された正式の予言者ではない。しかしわたしが幼少のころより信頼している、たったひとりのすばらしい予言者だ。母上の信頼も厚かった重臣のひとりで——さきほどの|謁《えっ》|見《けん》の|間《ま》にもいたはずだ。衛兵のそばに立っていた、白銀の|髭《ひげ》の重臣なんだが」  やや|機《き》|嫌《げん》を直して、グリフォンはこたえた。  リューは謁見のときの記憶がよみがえり、またいやな予感がした。  彼を見つめ、眼に涙をためていた高貴そうな老人にまちがいなさそうだ。     8章 |歓喜宮《かんききゅう》の|憂《ゆう》|鬱《うつ》  皇帝から遅い朝食の招待を受け、リューは相棒とともに仕方なく出向いていった。  朝早くから強制的に湯あみさせられ、女ものとしか思えない縁飾りのついたそろいの真紅の薄ものを、|有《う》|無《む》をいわせず着せられていた。  それでもエリアードにはよく似あっていた。  のぼせて上気した|頬《ほお》の彼は、衣装をさしひいても十分あでやかで、リューがぎょっとするほどの色香があった。  ひらひらした紅い衣をゆるやかにまとっていると、背が高くてがっしりした女に見えないこともなかった。アルダリアの|女泥棒《おんなどろぼう》が隣に並べば、大きすぎる体格もそれほど不自然ではないだろう。  相棒のそんな視線を感じとって、エリアードは彼をにらみつけた。  あいかわらず勘がいいと感心しながら、リューは眼をふせた。  反対にリューのほうは、同じような薄ものを着ても、まったくさまにならなかった。|精《せい》|悍《かん》ですっきりした容貌の彼では、あでやかどころか趣味の悪い|道《どう》|化《け》|師《し》にしか見えない。  通路を案内されて行くあいだも、彼は恥ずかしくてならなかった。  しかし、前を歩く太った中年の大臣が着ている花びらを縫いつけた上着を見て、ここはこういうところだとあきらめた。  皇帝はいつも、朝食を私室の寝台の上でとるという。そこに招かれるのは、身内か、ごく親しい者だけらしい。  その招待がいかにありがたく、名誉なことかを、ふたりは湯あみの前からくりかえし言いきかされた。  べつに招かれたくなどないと彼らは思ったが、|虜囚《りょしゅう》の身の上ではままならなかった。  |歓喜宮《かんききゅう》での最初の朝は、こうした|苛《いら》|立《だ》ちからはじまった。  皇帝は彼らを気さくにむかえ、朝食の席ではさしさわりのない話題しか選ばなかった。  セレウコアの渇いた気候の話や、都の果樹園で栽培されている珍しい果実の話がおもで、それもごく簡単なものだった。  グリフォンから|釘《くぎ》をさされているのか、朝から面倒な話題を出すのはさけたいという、皇帝の美意識なのかもしれなかった。  リューは初対面のときから、皇帝には好意と敬意をいだいていたので、おとなしく話を聞いていた。  グリフォンと見かけは似ていても、何げない高貴な|所《しょ》|作《さ》や、豊かな人柄を感じさせる口ぶりは大違いだと彼は思った。  この皇帝と上等の酒をくみかわしたりできるなら、もう少し歓喜宮にとどまってもいいとリューは考えたりした。  逃げるのは針の穴を通るほどにむずかしく、不気味な宗教集団に追われる身ならば、ひらきなおって滞在を楽しんでみようかとも。  しかし朝食がとどこおりなく終わったのちに、皇帝はそんな甘い彼の考えを吹きとばすような質問をした。 「二十歳をいくらも出ていないとのことだが、まだ奥方はおられないだろうな」  妙な|矛《ほこ》|先《さき》に驚いて、リューは食後の茶を飲みくだし、うなずいた。 「身内には、二十五歳をすぎた弟が独り身でいるのに、他人の世話などやくのは筋違いかもしれぬが、よければいずれ、そなたに会わせたい|娘御《むすめご》がおる」  天候の話の続きのように、皇帝は気やすくきりだした。  リューは返答に困った。 「わたしに娘がいればと思うが、|側《そば》|女《め》にもうけた一番上の娘はまだ八歳だ。形だけの婚約をかわしても、あと六年は待っていただくことになるゆえ、残念だが無理のようだ」 「——待ってください。異邦人で、身分も財産もない放浪者のわたしごときに、そのような姫君をというのは、それこそ無理な話だと思えますが……」  とんでもないとリューは首をふった。 「なぜだろう。身分でいうなら、会わせたい娘御は臣下にくだった父上の弟の娘にあたり、そなたにはいささか失礼にあたるかと心配しておったのだが」 「失礼も何も、昔はともかく、今のわたしは、路銀もろくに持たない放浪者にすぎません」 「|謙《けん》|虚《きょ》なお人柄だな。こんな話をするのも、昨日より見てまいったそなたのすぐれた資質にほれこんでのことだ。かつての身分や栄光を、わずかなりともひけらかそうとはせず、その若さで|報奨《ほうしょう》にも地位にも|拘《こう》|泥《でい》しないとは素晴らしい」  いろいろ解釈のしようはあるものだと、リューは返す言葉もなかった。  助けを求めるように目でうったえても、エリアードは出る幕ではないと|傍《ぼう》|観《かん》していた。 「近ごろではめったにない感動を、昨日の|謁《えっ》|見《けん》ではおぼえたぞ。そなたは一介の放浪者としてわがもとにおもむき、恩人である隊商の|長《おさ》との約束を果たすためにのみ、託された貴重なものを届けたのだ。いかなる|報酬《ほうしゅう》も求めず、そなたはそのまま出ていこうとした——けっしてそれが芝居でなかったことを、この朝食の席であらためて確認させてもらった」 「べつに謙虚なわけでなく、自由に気ままな旅をつづけるのがわたしの望みなんです」  |皮《ひ》|肉《にく》もまじえて、リューは応じた。 「奥方の件は、いささか先ばしりすぎたようだ。そなたの若さで、ひとりの女に縛られるのは、たしかに|酷《こく》かもしれぬ。記憶のどこかにとどめてくれればよい——こんなことを言うのも、ひとつには、セレナーン姫への罪ほろぼしでもあるのだ。|亡《な》き父上があの異邦の高貴な姫に与えた仕打ちは、弟とわたしであがなうべきものだ」  さすがに皇帝の手前、よけいなお世話だとも言えず、リューは押しだまった。  あとは以前のようなさしさわりのない話に終始し、ふたりは退出した。  案内役として同行した花びらの大臣は、行きとはうってかわった|丁重《ていちょう》な態度になった。話にのぼっていた、皇帝の|従妹《い と こ》と結婚したときのことを考えたらしい。  与えられた部屋にもどっても、リューはずっと黙りこんでいた。皇帝にまだ好感を持っているだけに、いつもの文句もつけにくいのである。 「あなたの好みかもしれませんよ。実物を見てから悩んでみたらいかがですか」  力づけようと、エリアードは軽口をたたいた。多少の|皮《ひ》|肉《にく》と警戒もふくんでいた。 「あのグリフォンの|従妹《い と こ》でもあるんだ、似ていたらどうする」  次第に状況はぬきさしならなくなり、リューの|声《こわ》|音《ね》には|苦渋《くじゅう》がにじみでていた。 「でもあなたは|惚《ほ》れっぽいから——」 「まだ根にもっているのか。皇帝の前でも、助け舟ひとつ出してくれなかったな」 「とてもわたしが口をはさめる問題ではありませんよ。あなたの奥方でも、婚約者でもありませんからね」  エリアードは淡々と言った。  はっとひらめくものがあり、リューは相棒のほうを見た。  よく似あう真紅の部屋着のままで、エリアードは|長《なが》|椅《い》|子《す》に座っていた。  湯あみのあとで見た印象を思い出し、グリフォンに口どめすれば案外うまくいくかもしれないとリューは考えた。 「奥方になればいいんだ、それならことわるのも簡単だ」  けげんそうな相棒に、リューは歩みよった。 「セレウコアでは、男どうしの結婚を認めてるんですか」 「そいつは期待できないな、はるか西方にある|幻《まぼろし》の国でもないかぎり」 「では不可能ですよ」 「可能にするんだ、それほどむずかしくない——着るものはそれで十分だ。あとは布でも巻いて|咽喉《の ど》をおおい、長めの手袋をつける。|白粉《おしろい》はいらないが、|紅《べに》はあったほうがいい、|侍《じ》|女《じょ》にでも持ってこさせよう。あとは|髭《ひげ》に気をつけて、声は当分、|風邪《か ぜ》でもひいていることにするしかないな」  確かにこの上なく美しいが、女のものにしては鋭角な顔形をリューは検分した。 「背が高すぎるのはなんだが、アルダリアならばもっと大柄な女もいる。歩き方は気をつけたほうがいい、|裾《すそ》をうまくさばき、なるべく|内《うち》|股《また》で静々と歩くんだ——だいじょうぶだ、皇帝の娘だろうと、従妹だろうと、おまえを見れば逃げだすよ。実際、おまえより美しい女には会ったことがないからな」 「それはわたしに、女装しろと命じてるわけですか」  あきれてエリアードは声を低めた。 「女装ではない、本物の女のふりをしてくれと頼んでいるんだ」 「おことわりします、冗談でも悪い冗談だ」 「エリー、わたしが皇帝の|従妹《い と こ》とやらと縁組みさせられても平気なのか」  はじめは思いつきの悪ふざけだったが、検討していくうちにこれはいけるとリューは本気で考えた。|忌《い》まわしい婚約話から逃げられるならと、わらをもつかむ思いだった。 「力を貸したくても、やはり不可能ですね」  エリアードはすんなりした|眉《まゆ》をあげ、わずかにほほえんだ。 「なぜだ、短いあいだならごまかせると思うがな」 「今朝の湯あみについていた何人かの|侍《じ》|女《じょ》と|小姓《こしょう》に、女ではないということはもうばれてますよ。口どめするには人数が多すぎますからね」  失望のあまり、リューは|長《なが》|椅《い》|子《す》に腰を落とした。 「昨夜のうちに考えるんだったな、この計画は」 「お役に立てなくて残念ですよ」  せいせいしたように、エリアードは窓のところまで歩いていった。  |歓喜宮《かんききゅう》は都でもいちばん高い丘の上にあり、どこの部屋からも見晴らしは抜群だった。  皇帝の私室からは、サライ河とその源流の神秘な湖まで、一望のもとに見わたせた。  彼らに与えられたひとつづきの間からは、都下につづく長い石段と、宮殿をかこむ緑の庭園がよく見える。 「グリフォンがくりかえしたとおり、皇帝は石やわたしたちについては何も言いませんでしたね。縁組みの話を持ちだしたのは、口をはさまないかわりでしょうか」  窓を背にしてエリアードはふりむいた。強い陽射しが人の形の影をくっきりとつくる。 「逃げられはしまいから、そう急ぐこともないという余裕だろうよ。わたしをここに縛りつける、からめ手のひとつだな」  依然としてリューは元気がない。 「だから|下手《へ た》にわたしを女に見せかけてことわっても、別の手できますよ。縁組みに|邪《じゃ》|魔《ま》だからと、わたしが暗殺される可能性もないわけじゃない。あなたのために死ぬ|覚《かく》|悟《ご》はありますけれど、女のままで|葬《ほうむ》られるのは勘弁してほしいですね」  まんざら冗談でもないと、エリアードはぞっとした。  本気で皇帝の従妹とめあわせようというなら、障害となる彼は殺されないまでも、引き離されるかもしれないと。  彼はこれまでの苦い経験から、国が国として動くとき、個人がどんなに|残《ざん》|酷《こく》にあつかわれるか、よくわかっていた。  午後にはやるべきこともなく、ふたりは宮殿の庭をあてもなく散策していた。  部屋にいても身体がなまるし、できるかぎり周囲のつくりを調べておこうという意図もあった。  表むき彼らは客人だったので、何をしても行動は自由である。  さりげなく護衛をするように、何人かの屈強な衛兵たちが彼らについてきた。  中には|肌《はだ》の黒っぽい、アルダリア人かニサ人のような兵もまじっていて、リューは都で別れた|女泥棒《おんなどろぼう》のことを思い出した。  採光をうまく計算した回廊をすぎ、ふたりは噴水が点々とある緑林にわけいった。宮殿の中にくらべて、庭園にはそれほど装飾もなく、趣味も悪くない。  けれど、ときどき通りがかる宮廷人とおぼしき派手な男女は、あいかわらず目をおおうばかりだった。  緑林のただ中にある、鳥を放し飼いにした花園からは、大勢の女たちのはしゃぐ声がした。  いつもなら興味をひかれるところだが、リューはしばらく女はたくさんだと思っていたので方向を変えた。  エリアードも別に異議をとなえず、散策につきあった。  女たちの一部が、彼らを見つけて追ってきた。すれちがった宮廷人たちはだいたい彼らを見て見ぬふりをして通りすぎたが、その女たちは関心をもったようだ。 「お待ちなさい、ちょっと」  女官長ふうな中年の女が、ぞんざいに呼びとめた。  ふたりは仕方なく足をとめる。 「ナナイヤ様がお呼びです、ついていらっしゃい」  女はためらわず、エリアードの腕をつかんだ。  驚いて、彼は相棒のほうを見た。 「なんの用ですか、そのなんとか様[#「なんとか様」に傍点]というのはどなたですか」  冷ややかにエリアードは応じた。  女はきっと彼をにらむ。 「つべこべ言わないで、ついてくればいいのです」  エリアードは女たちにかこまれて、花園のほうに連れていかれた。彼女たちは同じような短い衣を着ていて、王宮の|侍《じ》|女《じょ》のようだ。  黙ってリューも、そのあとをついていった。彼のほうには用がないようだったが。  原色の大輪の花のあいだに、命令の主と思われる黒髪の娘がいた。  背丈はそれほどなかったが肩の張ったがっしりした体格の、二十歳くらいの娘だ。  娘はエリアードを見つめ、顔を輝かせた。目鼻立ちがくっきりとして、表情の変化がはっきりと見てとれた。 「なんとか様[#「なんとか様」に傍点]はどうやら、おまえに|惚《ほ》れて呼びよせたらしいな」  リューは相棒の背中を押した。いつものことで、こんなときは離れて見ているにかぎると。 「そちらの者、失礼な言葉は控えなさい。ナナイヤ様は、前皇帝陛下の弟君の皇女であられますよ」  中年の女が警告した。  リューは驚いて、黒髪の娘を見つめなおした。  とすると、この娘が皇帝の|従妹《い と こ》で、彼と縁組みさせられるはずの当人かもしれない。  よくよく見れば、皇帝やグリフォンの容貌に少し、似ているところがある。  エリアードにはそれが聞こえていず、何も知らないでナナイヤ姫と向きあっていた。 「昨日やって来たという、東方からの客人ですね。グリフォールの|賓客《ひんきゃく》だという——|噂《うわさ》には聞いていたけれど、そなたのような|麗《うるわ》しい者ならのぞきにいけばよかった」  ナナイヤはのびあがるように、長身の彼を見上げた。縁組みに関する話は、まだ彼女のもとにはいってないようだ。 「銀色の髪など、実際に見るのは初めて、両の眼も銀なのね。日焼けしてない|肌《はだ》もめずらしい——昔、壁飾りでそんな者を見たときは、色素がないかのようで気味が悪かったけれど、そなたは光を集めた人形のように|麗《うるわ》しいわ」  うわごとのようにナナイヤはささやいた。  |侍《じ》|女《じょ》たちに囲まれてしりぞくこともできず、エリアードは困惑していた。  リューはといえば、気楽に遠くからながめている。 「あなたはどなたですか。グリフォン、いやグリフォール殿の身内の方かな」  例の皇帝の|従妹《い と こ》かもしれないと、彼もいちおうは考えてみた。 「どなたでもいいわ。わたくしもそなたには、名を尋ねません。名前も身分も忘れて、わたくしたちは花園でめぐりあったのです。そういたしましょう」  夢見る姫君は、その思いつきにうっとりとした。 「このあいだ、誕生日の贈り物にもらった絵物語の恋人たちがそうでしたわ。|邪《じゃ》|悪《あく》な|魔術師《まじゅつし》に記憶を奪われ、深い森をさまよっているうちに運命の|導《みちび》きでふたたびめぐりあい、お互いのことをすっかり忘れているのに、また新しい気持ちで恋しあうのです」  エリアードは困って中年女を見たが、姫君のおっしゃるようになさいと態度でしめされた。  彼はどちらかというと恋人役よりも、邪悪な魔術師のほうがよかった。  ほかに誰もいなければ、軽い暗示をかけて、この浮き世ばなれした姫君の記憶を封じてしまいたかった。  いつものごとく恋路を|邪《じゃ》|魔《ま》する役まわりになりそうなので、リューは離れていた。よくある状況なので、慣れたものである。  彼女が縁組みの相手なら、これは思いがけない幸運ではないかと思ってもいた。女装させるよりも、エリアードにはこちらのほうが向いている。  もてる相棒をもつのもたまにはいいと、彼は感謝しはじめていた。  従妹の姫が相棒のほうに熱をあげれば、皇帝も縁組みを強行することはむずかしくなるだろう。  見ているかぎり、姫君は命じられるがままに|嫁《とつ》ぐような娘ではないようだ。  相棒の困惑をよそに、リューはそうやって喜んでいた。  助けようとするそぶりもない彼を、女たちにかこまれたエリアードは|恨《うら》んでいた。  どう彼がことわろうと、ナナイヤは聞きいれそうになかった。たいした恩恵を与えてやるといわんばかりの態度だ。 「さあ、わたくしの部屋に行って、語りあいましょう」  彼女がエリアードの手を引いたとき、恩いがけない助け舟が現れた。  木々のあいだから、白と銀の入りまじった長い|髭《ひげ》の老重臣が、|杖《つえ》をついて近づいてきた。 「ナナイヤ様、お捜ししました、陛下がお呼びでございます」  重臣には、彼女もその侍女たちも一目おいているようだった。はっとしたように老人を見つめる。 「風神の間でお待ちでございます。お急ぎのご用件だとうかがってまいりました」  老人は、まだぐずぐずしているナナイヤたちをうながした。  まだあきらめきれない様子で、|侍《じ》|女《じょ》にかこまれた彼女はふりかえりながら遠ざかっていった。  エリアードはほっとして、老人にほほえみかけた。わざわざ礼をのべるのも姫君に失礼かと思い、目礼だけにした。  近づいてきたリューには、険しい|眼《まな》|差《ざ》しで応じた。  おもしろがってながめているだけで、彼が救いの手を求めても、リューは無視したのである。 「あれはたぶん、朝食の話に出た皇帝の|従妹《い と こ》だ。女官がそんなようなことを言っていたんだ」  なだめもせず、リューは説明に入った。  もしかしたらそうではと思っていただけに、エリアードの眼は注意深く細められた。 「いい成りゆきだ、天もわたしを気のどくに思って味方したのだろう。これですぐに婚約、という事態はさけられる。時間さえ|稼《かせ》げば、あとはなんとか逃げだす策もうかぶだろう」  老重臣がまだ近くにいるので、リューは声を落とした。 「彼女の気持ちを、しばらくわたしに向けておけということですね、それは」 「無理して向けておかなくても、あの様子ではだいじょうぶだ。完全におまえにのぼせあがったようだからな——女装してもらわなくてよかったよ。おまえにはこちらのほうが適役だ」 「反対にわたしは、女装の件を引きうけたくなりましたね」  エリアードは深いため息をついた。  ふたりが小声で話しているわきを、老重臣は視線も向けずに通りすぎた。  すれちがいざまのすばやい仕草で、重臣はリューの手の中に、小さな皮紙のようなものを押しこんでいった。  衛兵が距離をおいて、彼らを見張っていた。  おそらくその目をごまかすためだったのだろう。老人はそのままふりむきもせず、緑林に姿を消した。  ふたりは顔を見あわせ、衛兵の死角になるような場所で手のひらの皮紙を盗み見た。  白茶けた皮紙には、黒い文字がしるされていた。  リューは目をうたがった。その文字は、彼らの故郷のリウィウスの文字のようだった。  この地の公用語の文字と共通点はあるが、いくつかの独特の文字の形は、リウィウスでしかありえないものだ。  リューはひさしぶりに見た故郷のなつかしい文字を読みとった。  文字はこう語っていた。 『衛兵にお気をつけて、目の前の緑林を北に直進した白い|四阿《あずまや》にお入りください。ぜひともお話ししなければならないことがあります。あなたの今後のためにも』  彼はためらったが、これは行かずにはすませないだろうと|覚《かく》|悟《ご》した。     9章 故郷よりの使者  指定の|四《あず》|阿《まや》は、枝ぶりの見事な高木の下にひっそりと建っていた。  白い石と赤く色をつけた石を交互に配した段をのぼり、丸い屋根の日陰になった薄暗い中に、彼らは入っていった。  衛兵たちは涼みに行くのだろうと、中まではついてこない。  それを確かめて、石の|椅《い》|子《す》の影にいた重臣は姿を見せた。石壁を背にして、外から見とがめられないように気をつけている。 「わざわざこんな場所にお呼びたてして、申しわけございません、リューシディク様」  重臣はひざまずいた。白銀の長い|髭《ひげ》が、白と赤の石の床についた。 「昨日より機会をうかがっておりましたが、他の者に聞かれずにお話をかわすのは、こうでもしなくては不可能でございました。ご無礼をお許しください」 「——リウィウスの者か」  かわいた声でリューは尋ねた。  グリフォンとの出会い以来、いやというほどリウィウスにまつわることを思い出すはめになり、さしもの彼も慣れてきた。 「そうでございます。もうセレウコアで四十年も暮らしておりますが、故国のことはひとときなりとも忘れたことはございません」  それなら忘れたほうが幸せなのにと思ったが、リューは口に出さなかった。 「皇帝やグリフォンは知っているのか」 「ご存じないと思います。グリフォン殿はうすうす気づいてらっしゃるかもしれませんが、あの方と同じようになんらかの形でつながっているくらいにしか、お考えになっておられないでしょう」 「四十年前、この地に降りたったわけだな。どうやって来ることになったんだ」  話は長くなりそうだと、リューは石の椅子のひとつに腰かけた。  エリアードも黙ってその隣に座る。  重臣は彼らの前に膝をつき、頭を垂れたままだった。 「わたくしをおぼえてらっしゃいませんか、リューシディク様、無理もございませんが」  重臣はまた、同じ涙をためた眼で、リューを見つめた。眼の色は、エリアードに似た銀色をしていた。 「父に連れられて王宮におもむき、何度かお目にかかったことがあります。あなたがまだ十二歳か、十三歳にはなってらっしゃらないころでしたが」  サライ河のほとりの宿で見た夢が、目の前の同胞の上にかさなった。 「あの|僧《そう》|侶《りょ》の——名は確か、キルケスとかいったな、わたしの教育係だった」 「父を思い出していただけましたか。それだけでも十分な幸せでございます。砕けた地に眠る父も喜んでくれるでしょう——この地ではわたくしも、父と同じ名を名のっております」  小キルケスはこらえきれず泣きむせんだ。  リューも教育係の|僧《そう》|侶《りょ》をなつかしく思ったが、相手の過剰な反応には面くらっていた。 「おまえは知らないはずだな。ちょうどおまえが王宮に|伺《し》|候《こう》してくるのと入れかわりぐらいに、教育係を辞したんだ」  |苦《にが》|手《て》な|愁嘆場《しゅうたんば》からは目をそらし、リューは相棒に話しかけた。 「ええ、知りません。それに最初のうちは、あなたづきではありませんでしたからね」  エリアードのほうは、ひさしぶりに同胞とまみえた感激にひたっている重臣を大げさだとは思わず、共感するものをおぼえていた。  これまで〈月の民〉と称する者たちと会ったことはあるが、リューを実際に知っているという者は初めてだ。 「父はわたくしが十五の歳に、|流行《は や》り|病《やまい》でみまかりました。わたくしはあとをついで僧侶にはならず、そのころは|白魔術《しろまじゅつ》の修行に励んでおりました」  あふれる涙をぬぐい、キルケスはふたたび顔をあげた。 「ならばリウィウスでの年齢は、わたしとそれほど変わらないのだな。わたしのほうは、この地にきてまだ二年たらずだが」  リウィウスからこの地にやって来る者たちは、もといた年代にかかわらず、過去や未来に散らばっていた。  空間の|歪《ゆが》みが、同時に時間の歪みも生みだしているのではないかとされているが、さだかではなかった。  実際に不思議な花園を通りすぎたふたりにも、よくわかってない。 「父とのかかわりもあり、年の近いせいもあって、あなたがどうされているかは、いつも気にかけておりました——あなたがラウスターとの戦いの途中で、ジョイアスの|魔《ま》|窟《くつ》にお姿を消されたという話は、わたくしの修行の転機となったのです。  それからわたくしは魔窟に興味を持ち、ジョイアスの森だけでなく、他にも似たような神隠しの場所があることを調べました。それぞれに、かなりの人数の|失《しっ》|踪《そう》|者《しゃ》がいることも知りました」  すっかり落ちつきをとりもどし、理知的な口調でキルケスは語った。  ふたりは黙って耳をかたむけていた。 「魔術師としての修行を終えても、わたくしは|同《どう》|輩《はい》たちのように王宮や領主の専属にはならず、そうした失踪の場所を研究しつづけました。  その場所の近くに小屋を建てて住み、できるかぎりの方法で、どこへどうつながっているのか調査しました。いったん入ればもどってこられないことはわかってましたので、その方法だけは最後の手段として取っておきましたが」 「外から見て、何かわかったのか」 「はい、多少のことは——そうした場所は、あたり一帯や、ごく近くに古代遺跡のあったところがほとんどなのです。今でこそ禁域となり、魔よけの図形が刻まれていますが、伝承などでうかがいしるところによれば、古代人たちはそこを通路のように使っていたようです。  街道の関所のように、行き来する者たちをとどめおく施設のような跡も見つかりました。すべてではないにしろ、通路は一方通行ではなく、向こうからやってくることもできたらしいのです。  さまざまな事情で|魔《ま》|窟《くつ》に入りこんだ人たちは、あなたも含めて、以前には行き来できていた、どこかの場所に着いたのだと、わたくしは次第に確信しました」 「かの地とこの地に住む者たちの遠い祖先は、同じだということかな。確かに、言語や文字に驚くほど似たところはあるが」  引きこまれてリューは言った。  彼の|失《しっ》|踪《そう》をきっかけに、魔窟と呼ばれる区域を|真面目《ま じ め》に調査しようとした者がいたことは、過去が洗われるような思いだった。 「古代遺跡が機能をはたしていたころは、共通していたのかもしれません。しかし今にいたっては、|肌《はだ》や髪の色のみならず、寿命もちがっているのではないかと思います——わたくしはリウィウスで二十五歳のとき、近くに住みついて調査していた魔窟のひとつに入りこみました。もっととどまって調べたかったのですが、危険な研究をしている|妖術使《ようじゅつつか》いとして私刑にあいそうになり、仕方なく逃げこんだのです。  暗い穴を落ちるようにして着いたのが東の荒れ地で、それからセレウコアに住みつくようになり、四十年がたってます。ですから、この地での一年が、リウィウスでの一年と同じであるならば、わたくしは六十五歳になるはずです。  けれどこの白っぽい髪や|髭《ひげ》で老人のように見えますが、わたくしはたぶん、それほど年をとってないように思えます。わたくしの髪は若いころから、今と同じ、白に近い銀でした」 「そうだな。リウィウス人だと思い、白髪でないとしたら、六十歳すぎの老人には見えない」  リューはあらためて、同胞の重臣を見つめた。庭園では|杖《つえ》をついて歩いていたが、足腰はしゃんとしているようだし、口調や動作は老人のものとは思えなかった。 「目の下や|額《ひたい》の|皺《しわ》は、慣れない異邦の地で苦労したせいと、強すぎる陽射しのせいです。はじめはあなたがたのように青白かった肌も、日焼けして、皮が何度もめくれるうちに浅黒くなりました——二十年ほど前から、|歓喜宮《かんききゅう》に|伺《し》|候《こう》するようになったのですが、わたくしはそのときから、老人としてあつかわれました。見かけは今と、ほとんど変わってないのですが」 「一年の長さがちがうのかな。この地ではたいがい、金の月が満ち欠けするあいだをひと月、銀の月が満ち欠けするあいだをひと旬と数えるが、一年全体の日数は変わらないから、同じくらいだと思っていた」 「わたくしのほかにも、かの地から訪れた者たちがいますが、彼らもこの地の人々より、ゆるやかに年をとるようです。この四十年のあいだ、多くの同胞を見てきた感じから言えば、三倍か四倍のゆるやかさです——そのせいもあり、わたくしたちは単に異邦の者だというだけでなく、化け物あつかいされることもありました。ナクシット教団が、わが同胞たちを人間とみなさず、|抹《まっ》|殺《さつ》しようともくろむのも、そんなところが原因しているようです」  キルケスは、これまでの年月をふりかえるような遠い|眼《まな》|差《ざ》しをした。  見かけはほとんど変わっていないとはいえ、その|叡《えい》|知《ち》を秘めた銀の眼には、異邦の地ですごした四十年の年月の重みがあった。 「前置きが長くなりすぎました。わたくしがこの地に来るきっかけとなったお方を目の前にして、いろいろこれまでのことが思い出されました——生きているうちに、ふたたびお会いできて、望外の喜びです、リューシディク様。この地を訪れる年代はみなまちまちなので、あるいは無埋かとあきらめておりました」 「東の荒れ地に降りたったと言ったな。グリフォンの母親だという姫君の降りたところと近いのか」 「ほとんど同じ場所だと思います。おそらく同じ|魔《ま》|窟《くつ》を通ったのではないかと想像しております。セレナーン様は|白魔術師《しろまじゅつし》に目隠しをされ、連れていかれたというのではっきりしませんが——都の近辺で|商《あきな》いをしていたわたくしが|歓喜宮《かんききゅう》で働くようになったのは、セレナーン様がここにいらしたからです。  後宮にいらっしゃる|側《そば》|女《め》のひとりが同胞の者だと見当をつけ、わたくしは|伺《し》|候《こう》することにいたしました——そのまま二十年も宮殿で働くうちに、現皇帝に引きたてていただき、重臣にまでなることができました」 「姫君には、|素性《すじょう》を打ちあけたのか」 「すべて、お話ししました——セレナーン様はご不幸でした。東の荒れ地に降りたち、近くのオアシスの町に保護されたところを、視察で訪れた前皇帝に見そめられました。抵抗なさったとも聞きますが、いやおうなく連れてこられたそうです——リウィウスの王族の姫君が、辺境で拾った|娼婦《しょうふ》のようにあつかわれたのです」  |憤《いきどお》りをこめてキルケスは言葉をきった。 「|嫉《しっ》|妬《と》深い皇帝はそれから、あの方が|亡《な》くなられるまで、後宮から出ることを許しませんでした。何度も逃げようとなさって、それはひどいめにあわされたそうです——あの方はこがれるほどに、同胞たちと会いたがっておられました。あの方はわたくしのように|切《せっ》|羽《ぱ》つまって逃げたのではなく、ほかにも大勢の者がこの地に避難するからと信じていらしたのですから、その思いはいっそう強いものでした。  わたくしが伺候して、そば近くでお話しできるようになったころには、ご健康を害し、起きあがることもつらそうでした。できればお救いして、同胞たちの住む地にお連れしようとしましたが、とても旅のできるお身体ではなく、あきらめるより仕方がありませんでした。わたくしとリウィウスの話を語りあうことが、あの方のわずかななぐさめであったようです」  なるほどそれが皇帝の口にしていた罪ほろぼしの罪状かと、リューは|合《が》|点《てん》がいった。 「おまえはなんのためにとどまったんだ。姫君が|亡《な》くなったなら、ここにいる意味はないように思えるが——わたしが訪れることを予期していたわけではあるまい」 「本題はそのことでございます。寄り道の思い出話が長すぎました。わたくしのこれまでの|苦《く》|労《ろう》|譚《たん》などをお聞かせするために、わざわざお呼びたてしたわけではございません」  キルケスは明かりとりの窓から衛兵の位置を確かめた。|四《あず》|阿《まや》のまわりには、今のところ誰もいなかった。 「リウィウスで|白魔術《しろまじゅつ》の修行をしてきたと申しあげましたが、わたくしの主たる才は予言と予知にありました。しかし作為的でない、真の予言や予知はふいにおとずれるもので、わたくしはそれはそれとして、ほかのひととおりの魔術を修めました。  この地にきてからも、修練はひそかに続けております——|素性《すじょう》をはっきりできないので、ギルドに認められることはありませんが、多くの分野で高位の資格が得られると自負しております。  リウィウスにいた最後の一年のあいだ、わたくしは何度も同じ予知を得ました。リウィウスやラウスターを含む故郷の地が、やがて|跡《あと》|形《かた》もなく消滅するというものです。  人心をいたずらに乱すものですから口外はせず、ただ調査記録の隅に書きとめただけでした——セレナーン様が言われるには、わたくしの残した記録は後世の人に受けつがれ、同じ予知を得た者たちによって広められ、滅びゆくリウィウスからの移住に一役かったとのことでした。  こうした話をしたのも、わたくしの予言に信頼をおいていただきたいからです——セレナーン様の|亡《な》くなられたあとで、わたくしはあなたにまつわる予知を得ました。セレナーン様に|匹《ひっ》|敵《てき》する高貴な方が、ふたたび|歓喜宮《かんききゅう》を訪れるだろうというものでした。わたくしもお会いしたことのあるあなたであるとは、予想できませんでしたが。  セレナーン様のように手遅れとならないためには、ここで地位を得るべきだと、わたくしはとどまることに決めました。ほかの地に散らばる同胞たちのためにも、セレウコアの|中枢《ちゅうすう》にくいこんだ者が必要かとも。  そしてグリフォン様があの石を調べはじめたとき、また予知が訪れました。お聞きになったかもしれませんが、石が正統な主人を見いだしたとき、内に秘めた力が引きだされるだろうというものでした——グリフォン様にそれを告げたのは、セレナーン様のご子息であるあの方が、その予言された主人かと考えたからです。  今はいくらセレナーン様の忘れがたみでも、よけいなことを告げるべきではなかったと後悔しております」 「まさしくよけいなことだ。わたしたちが|虜囚《りょしゅう》となっている、そもそもの要因だからな」  リューは同胞の予言者に文句をつけた。  すぐれた予言者だとしても、グリフォンなんかを信頼するのは思慮が浅いと、彼は思っていた。 「直接、お確かめしたかったのでございますが、あなたはここを出たいと思ってらっしゃるのですね——おそらくあなたでしたら、石の力を利用し、大国セレウコアで高い地位を得ることが可能です。現皇帝は父君とはちがって公平で温厚なお方ですし、あなたに|付《ふ》|随《ずい》しているさまざまな利益より、あなた自身の資質を高く買っておられるのはまちがいありません、側近として保障いたしますが」 「とたんに、セレウコアの重臣にもどったような質問だな。おまえは同胞のわたしが、セレウコアの皇帝の信を利用して、側近のひとりにでもおさまるのを期待しているわけか」  心外そうにリューは尋ねる。 「いいえ、わたくしとしてはそうなられてほしくはございませんが、あなたがそうお望みなら、おとめはしません」 「望んでなどいるものか。わたしはこの歓喜宮という宮殿の名前ですら|皮《ひ》|肉《にく》に感じてるんだ。一刻も早く、ここから逃げることしか頭にないといっても過言ではないな」  白銀の|髭《ひげ》にうもれたキルケスの顔がうれしそうに輝いた。 「それでこそ、リウィウスの王族たる方のお答えだと存じます。われら同胞があおぎみるに値するお方だと——セレナーン様のご子息にもわずかな期待はございましたが、グリフォン様はやはりどうしても、セレウコアの方でございました。予言のせいもありましたが、半分はセレナーン様にくれぐれもと頼まれたあの方のご成長を見守るのも、|歓喜宮《かんききゅう》でのわたくしの仕事でございましたが」 「当然だ、グリフォンといっしょにされてたまるものか——あいつとわたしとはちがう、たとえ多少の血のつながりがあろうと、赤の他人よりも大きくへだたっているんだ」  嫌っているグリフォンと比較されてほめられたようで、リューは気分をよくした。 「お返事をお聞きして安心いたしました——歓喜宮をお出になる件はおまかせください。わたくしがなんとか手配いたします」  キルケスは簡単に|請《う》け|負《お》った。 「砕けた月の破片である石の正統な主人が、奇跡と見まがうほどの力を引きだすというのは、本当ですか。あなたが予言されたことなのですね」  黙っていたエリアードはたまりかねて問いかけた。  キルケスのほうは、ほとんど|脇《わき》にいた彼のことは眼中になかったようだ。あらためて、はっとしたように彼を観察した。 「予言ではそうでしたが、力を引きだすというのにはいささかの|語《ご》|弊《へい》があります——ただ確信をもっていえるのは、グリフォン様たちが考えているように、石を持って念じたりすれば奇跡が起こるというほど、たやすいものではございません。  たとえ話で恐縮ですが——石がすぐれた楽器で、リューシディク様がそれを演奏できる奏者だとしたら、ほかに必要なものはいくつかあります。最大のものは、音を響かせ、増幅させる、すぐれた設計の劇場でしょう。わたくしは今のところ、そう考えております」  この同胞の予言者は、たいした力と知識の持ち主ではないかと、エリアードはひそかに|舌《した》をまいた。  同時に警戒心も芽生えはじめた。  こうした分野にうといリューならば、とてもたちうちできまいと、不吉な予感めいたものを彼は感じた。 「わたしもリウィウスにいたころには、|白魔術《しろまじゅつ》を修めた時期があります。もちろん、あなたにはとうていおよばない程度のものですが」  |牽《けん》|制《せい》するようにエリアードは告げた。もしも相棒を何かの|手《て》|管《くだ》でだますようなことがあれば、|容《よう》|赦《しゃ》しないといわんばかりに。 「ええ、存じてますよ。リューシディク様とごいっしょに|失《しっ》|踪《そう》された副将のあなたのことも、リウィウスではさまざまに語られていましたから——|噂《うわさ》にたがわず、忠義な方のようだ」  キルケスは銀の眼を細めた。そのめったにない色あいはエリアードによく似ていて、同胞の|絆《きずな》を感じさせた。 「失礼な質問かもしれないが、あなたもセレウコアの皇帝たちと同じもくろみを持っているわけではありませんね——つまり、石の秘めた力と、それにかかわっているらしいこの人を利用したがっているわけではありませんよね」  エリアードは念を押した。 「とんでもございません。わたくしはむしろ、故郷の地につながるものや、わが同胞たちの上にいただくべき王族の方が、この地にうごめく者たちの|縄《なわ》|張《ば》り|争《あらそ》いなどに利用されるのが耐えられないのでございます」  きっぱりとキルケスはこたえた。その言葉には少なくとも、いつわりはないようだ。 「お約束の段取りは、近いうちにととのえます。またなんらかの方法でご連絡をさしあげますが——そのときまで、わたくしの周辺で何が起ころうと、あなたがたはそしらぬふりをなさってください。わたくしにはなんのかかわりもなく、言葉ひとつかわしたことなどないことにしていただきたいのです」  キルケスはふたたび|丁重《ていちょう》に頭をたれた。リューに対する敬意にも、いつわりはないようだった。 「そろそろもどらなければ、あやしまれそうです——衛兵の目をごまかすために、お先にここをお出になってください。それから、もし宮殿内でわたくしとすれちがわれても、絶対に声はおかけにならないでください」  腰をかがめながら、キルケスは|四《あず》|阿《まや》の影になった部分に身を隠した。  まだ尋ねたりないことがあったようにも思えたが、ふたりはとりあえず従うことにした。  四阿に入って時間もたち、確かにそろそろ衛兵たちがのぞきにくるかもしれなかった。  四阿の屋根から出ると、陽射しはまぶしかった。ほの暗い四阿でささやかれた|呪《じゅ》|文《もん》のような告白が遠のいていくようだった。  まるで真昼の夢を見ていたような心地がして、彼らはそっと白い四阿をふりかえった。 「信用していいんでしょうか、あの重臣を」  まだ心配そうに、エリアードはささやいた。 「ここから逃げる段取りを組んでくれるなら、グリフォンの野郎だって信用してやるよ」  リューのほうはいつものごとく、楽天的にかまえていた。 「逃げだせても、また別のやっかいごとが待っているかもしれませんよ。考えすぎかもしれませんが、これまでの経験から、あまりいい予感はしない」 「おまえの勘はよくあたるが、今度はだいじょうぶだ——グリフォンの|従妹《い と こ》と婚約させられて、この悪趣味な宮殿に縛りつけられるよりやっかいなことはありえないからな」  本当にそうかなとエリアードは思ったが、口に出すのはやめておいた。いたずらに不安をかきたてても、精神衛生上よくないと。  けれど彼の勘は正しかった。  やっかいごとはそれだけで終わらず、まだ最大級のが待ちかまえていた。 [#地から2字上げ]『ムーン・ファイアー・ストーン4』に続く     あとがき 『ムーン・ファイアー・ストーン』の第三巻『|極《ごく》|彩《さい》の都』をお届けします。  東の荒れ地から、シェク、アルルスと旅してきた金と銀のふたりに、無理やりくっついてきた第三の銅の男、そして彼らを追っている|女泥棒《おんなどろぼう》とその子分を加え、舞台はいよいよ名高い|城砦都市《じょうさいとし》へとうつります。  隊商からあずかった|謎《なぞ》の宝とは、いかなるものなのか。  剣フェチ・|魔《ま》|法《ほう》おたく・マザコンと|三拍子《さんびょうし》そろった謎の道連れの目的は何か。  幾多の苦難を乗りこえ(まあほとんど、悪運の強さだけで乗りきっているのですが)、やっとのことで、城砦都市セレウコアにたどりついたふたりを待ちうけている|衝撃《しょうげき》の事実はいかに——。  このあと、けっこうとんでもない展開になり(どちらか一方が結婚させられたり)、おもな舞台もベル・ダウの向こうに飛ぶのですけれど、ひとまずここではごゆっくりと、派手派手しい|絢《けん》|爛《らん》の都をお楽しみください。  一巻、二巻、三巻とつづけて出ましたので、なんて筆が早いのだろうと思われているかもしれません。  けれど実のところ、この五部作は去年のうちにほぼ出来あがっていまして、今年やったことといえば章立てを直したり、追加修正をしたのみなのです。  もうひとつ、いいますと、この『あとがき』は四月上旬に書いています。つまり、まだ一巻めも店頭に出ていない時点なんですね。 『あとがき』好きの私ではありますが、今回はいったい何を書くべきか、迷いました。ご質問・ご感想などいただければ、それに即して書いたりできるのですが、今はまだ桜の季節、この文を仕上げたら、|井《い》の|頭公園《かしらこうえん》へ花見に行きます。  何か書きたく思っていた湾岸戦争も終わりましたし、野球もまだ開幕しておりません。野球とファンタジィは両立するのかという質問を、ある人からいただきましたが、結論だけいいますと、両立します。近未来野球ファンタジィというものを書きかけたことがありますが、なかなかむずかしくてまだ未完。  書くネタがほかにないわけではないのですが、『あとがき』愛好家を自認してきた私ですから、なんでも書いて埋めればいいという態度では『あとがき』に申しわけがたちません。とくにこの三巻めは、ほかの巻に比べてページ数が少なく、『あとがき』の役割は大きいのです。  そこでまずは実地調査としまして、書店めぐりをし、最近出ている本の『あとがき』にかたっぱしから目を通してみました。|凝《こ》り|性《しょう》なんですね。  おおまかに、最近の『あとがき』のタイプをわけてみましたところ 1 内容解説型(自己分析ふうのものから、|愚《ぐ》|痴《ち》やいいわけに近いものまでいろいろ) 2 |自《じ》|叙《じょ》|伝《でん》|型《がた》(これまでの人生の軌跡や、青春日記ふうのもの、|立身出世《りっしんしゅっせ》ものとさまざま) 3 ミーハー型(1のくだけた型で、自作のキャラの裏話や、人気投票を発表したり) 4 |内《うち》|輪《わ》うけ型(友人の名を出したり、近所や自宅の話や、飼っている動物のことなど) と、このようになりました。あまりのおおまかさに異議もありましょうが。  以前の『あとがき』はおもに、1と2の型に大別されたように思えます。それも|大《おお》|真《ま》|面《じ》|目《め》なものがほとんどでした。  ここ数年で様相がすっかり変わり、最近のものはほとんど、3か4の傾向になっているように感じました。DJふうのものや、親しい友人に出す手紙みたいなものや、もっとくだけたものでは、長電話のおしゃべりのようなものもありました。  内容に興味をつなぎつつ、かたくるしくなく、単なる|内《うち》|輪《わ》うけにおわらず、手にとってくれた人にとってもおもしろく、読んで多少のためになるという『あとがき』を書くということはむずかしいことです。猫の名をつけるときのように、片手間ではできません。  前置きが長くなりました。  前回・前々回の『あとがき』は、分類でいえば、1、2型の混合だったかと思います。さて、三巻めのここで何を書くかということですが、今回は分析した『あとがき』の発展段階にそって3型に近いものをやってみることにします。  サブタイトルをつけるなら、イメージ・キャスティング編です。  とはいいましても、このタイトルで、不安と期待をいだいた方もいらっしゃるかと思いますが、具体的に各登場人物をキャスティングするわけではありません。  |華《か》|麗《れい》で|素《す》|敵《てき》なイラストがついてますので、へたにイメージをこわさないほうがいいと思います。作者という立場も離れて、ひとりのファンとして、毎回イラストが出来あがるのをわくわくしてますから。  それに私としてもはっきりと、この人はこの人といえるキャスティングはできません。  ごくごく最初の段階で、何かを書きはじめるときに、よく私は、この人はこんな感じというイメージみたいなものを、覚え書きとしてメモしていきます。  絵ではうまく描けませんので、だいたい映画俳優か、ミュージシャンか、ときには野球選手なんかで表現します。たとえば、○○という映画に出ていた●●の感じでとか、デビュー当時の☆☆とか、★☆がもっと|痩《や》せた感じでとか、スタイルは◆◆で顔立ちは◇◇ふうでとかです。時代を越えた、洋の東西を問わずの人選で、ならべてみるとかなりちぐはぐな取りあわせになります。  中でも映画俳優をキャスティングの材料にすることが多く、半分以上がそうです。たぶん完結した作品でひとつのイメージをつくってくれるので、思い描きやすいのだと思います。私が映画好きであることも一因でしょう。  で、イメージ・キャスティングの話は、ごひいきの映画の話に突入するのです。ここまでもってくるのが、はてしなく長くかかりました。 『あとがき』でそのうち映画の話をやってみたいと思っていたのですが、あまり内容と関係ない話では申しわけないと、ここまでのいいわけめいた前置きがあったわけです。  というわけで、ここからはご興味のある方のみ、おつきあいください。  ふつう映画好きの人は監督で見ることが多いようですが、私はもっぱら俳優を中心に見ます。監督にたいする興味は、いかに好きな俳優を魅力的に撮ってくれるか、にのみあるといってもいいくらいです。  ここ数年にかぎっていえば、圧倒的に男優の当たり年でした。その前にさかのぼると、いいなあと思ったのは女優ばかりだったので、周期みたいなものがあるのかもしれません。ハリウッド映画などの場合、極端な話、女優しか印象に残らないものが多いですから。  たとえばリズ・テーラーなんかは今でも好きです。最近の作『トスカニーニ』を見たところ、主役の赤丸上昇中の美形男優トーマス・ハウエル(『ヒッチャー』でルドガー・ハウアーに追いかけられていた少年です)もかすんでしまうほどのド迫力で、|惚《ほ》れなおしてしまいました。  しかしあまり古いものを取りあげるのもなんですので、ここ数年と範囲を区切って、ごひいき俳優の御三家(ケアリー・エルウェス、マシュー・ブロデリック、ダニエル・デイ・ルイス)の出ているものを中心に、おすすめ映画の紹介をやってみます。  みなビデオソフトになってますので、入手可能だと思いますし、大きめのレンタル・ショップには置いてあります。機会があったら、ぜひ見てください。 ★『プリンセス・ブライド・ストーリー』(八七年米)★  いちおうファンタジィ映画なので、一番手にもってきました。おじいさんが病気の孫に読んできかせるという、枠物語の形式をとった、同名のゴールドマンの原作を映画化したもので(原作もなかなかの傑作)、おとぎ話ふうファンタジィをパロディ化したような内容です。  昔々ある村に美しい娘がいて、下働きの貧しい若者と恋におちます。けれど財産のない若者は運だめしの旅に出て、そのまま|行《ゆく》|方《え》|不《ふ》|明《めい》となってしまいました。何年かして、娘はその国の王子から求婚されるのですが、婚礼を前にしてならず者[#「ならず者」に傍点]の三人組にさらわれてしまいます。そこに|黒装束《くろしょうぞく》の|謎《なぞ》の|海《かい》|賊《ぞく》があらわれて……という、|決《けっ》|闘《とう》あり、|復讐譚《ふくしゅうたん》あり、怪物との戦いあり、追いつ追われつのアドベンチャー・ラブ・ストーリィです。  主役のケアリー・エルウェスに注目したのは、この作品からです。以前に『アナザー・カントリー』などに出ているのは知っていましたが、あまり印象に残りませんでした。ルパート・エヴェレットがあこがれる美青年役を演じたのですが、いかにも、といった感じの無個性なおぼっちゃんふうで、あらためて見なおしてみてもいまいち[#「いまいち」に傍点]でした。  子役のみならず、若い俳優は何年か追っていくと、顔や感じが変わってしまう場合が多いんです。役柄によって変わったり、演技面でひと皮むけるとかいう以上に。  このケアリー君にしても、『ブライド』や『オックスフォード・ブルース』に出ていた初期の頃と、新作の『グローリー』や『デイズ・オブ・サンダー』では別人のように顔つきが変わってしまってます。  異論はあるかと思いますが、私にとっての、もっともよかった彼の|旬《しゅん》の時期は、この『プリンセス……』と、次に紹介する『マーシェンカ』の二作の頃でした。 『プリンセス……』は他の脇役陣もなかなかで、父のかたき[#「かたき」に傍点]の六本指の男をさがしている酒のみ剣士も、|拷《ごう》|問《もん》大好きの|屈《くっ》|折《せつ》した王子さまも、奇跡を売る|魔《ま》|法《ほう》|使《つか》いの老夫婦も、味のある役柄でした。ただケアリー君とからむとヒロインには、もう少しきれいな女優さんをつけてほしかったなあと思います。これは次の『マーシェンカ』にもいえる感想で、ルパート・エヴェレットのほうがきれいじゃないかと思わせる配役ではあんまりです。 ★『マーシェンカ』(八七年仏=西独=英)★  前にも出てきました、ケアリー君の旬の頃のもう一作です。ナボコフの処女作の映画化で、ロシアからベルリンに亡命してきた青年が、祖国ですごした日々や初恋を回想するというものです。  貴族的なちょっと崩れた感じでいながら、シャイで純情そうなケアリー君の魅力をうつしとっている点では、ファンとして申しぶんない作でした。『プリンセス……』ではちょっと目つきが悪いんじゃないかと思った独特の|眼《まな》|差《ざ》しも、ここでは適度に屈折したニヒルな感じが出ていて、『アナ・カン』の奥目のおぼっちゃんも、こんなに|素《す》|敵《てき》に成長するんだと感動しました。  わずか二作でも、彼は私の映画鑑賞歴の中で|燦《さん》|然《ぜん》と輝く位置についています。熱がこうじて、ある作品の主役のイメージ・モデルにもしてしまいました。 ★『グローリー』(八九年米)★  これには、ケアリー君も脇役で出ていますが(顔つきが変わってしまってます、|嗚《あ》|呼《あ》)、ここで取りあげたのは、主役のマシュー・ブロデリックのほうを書きたかったからです。二十代もなかばだというのに|林《りん》|檎《ご》のような|頬《ほお》の美少年で、もっとも最近のお気にいりです。  内容は、南北戦争で、黒人部隊を率いて|難《なん》|攻《こう》|不《ふ》|落《らく》の|砦《とりで》に突入した白人将校の実話をもとにしたものです。前述のふたりの共演が、この作品の目玉でしょう。  マシューを最初に見たのは、『ウォー・ゲーム』でした。米軍のコンピュータにアクセスしたパソコン少年が、ゲームのつもりで核戦争をはじめてしまうというSFもので、O・S・カードの『エンダーのゲーム』みたいだなと思って、何げなく見たのが出会いでした。暗いパソコンおたくの少年役に似あわない紅顔の美少年だなと、そのときから注目してました。  この人に関しては、いろいろ見て、じょじょにファンになっていったという感じで、『レディホーク』なんかも意識しないで見てました。|呪《のろ》いによって、夜になると|狼《おおかみ》に変身する騎士と、昼間は|鷹《たか》に変身する姫君の、中世の|雰《ふん》|囲《い》|気《き》たっぷりのラブ・ストーリーです。マシューは、呪いで引き裂かれた恋人たちの手助けをする少年の役。  主役のルドガー・ハウアーも(けっこうまともな役なのに、やはりこの人はどこかおかしい)、その相手役を演じたミシェル・ファイファーも好きでした。 ★『トーチソング・トリロジー』(八八年米)★  いちばん魅力的だと思ったのが、この作品のマシューです。彼はとてもいい役ですし、映画としてもよく出来ています。  これは真実の愛とヒューマニズムを照れずに描いて、押しつけがましくなく、|嘘《うそ》くさくもなかった|希《け》|有《う》な映画です。というか、『モーリス』でも感じたのですが、真実の愛とか、誠実とか、恋のためにすべてをなげうつとかいうテーマを正面きってできるのは、今やこの手の映画しかないのでは、とさえ思いました。  よくできた「女性映画」という評はいいえて妙で、主役のハーベイ・ファイアステイン(自伝を映画化して、みずから主演したそうです)が女性であったら、愛と尊厳についての母親との長いディスカッションなんかもふくめて、|珠玉《しゅぎょく》の「女性映画」になりそうでした。  まあしかし、主役のハーベイは女装してナイトクラブに出演する歌手で、「努力してもハイヒールしか似あわない」男性です。幼少の頃から、母親に隠れて口紅をつけていた彼は、あやまって男の身体を持ってしまった女といえましょう。彼の恋の対象となるのは同性の男ばかりですが、その|間柄《あいだがら》は従来の男女に近いものだと思います。  最初に登場する美男子の恋人に、|献《けん》|身《しん》|的《てき》な愛情を捧げる彼ですが、その恋人がバイ・セクシャルで、実際に女もいると知って、別れることになります。彼に言わせれば、その恋人が女とつきあうのは「自分を|偽《いつわ》っている」のだそうです。  |傷心《しょうしん》の彼が次に出会うのは、モデルをやっている純真な青年です。「男性不信」になっていた彼に一所懸命求愛する|一《いち》|途《ず》な青年を、マシュー・ブロデリックがあいかわらず|林《りん》|檎《ご》のような|頬《ほお》で、さわやかに演じています。  このカップルは夫婦同然に七年のあいだ|同《どう》|棲《せい》し、養子をもらうことにしたところ、とても不幸な事件が起こります。その先は、見てのお楽しみ。 ★『マイ・ビューティフル・ランドレット』(八五年英)★  もうひとつ、似て異なる映画をご紹介します。映画としては、ここ数年のベストに入る傑作だと思います。これを見たときの、一種のカルチャー・ショックは忘れられません。  こちらにも、プア・ホワイトの不良青年とパキスタン人の青年のカップルが出てくるのですけれど、『トーチソング……』と違っているのは、一方が心情的に「女」ではないことでしょう。そのあたりにいそうなごく普通の青年たちが、学校を卒業してから再会し、赤字つづきのコイン・ランドリーをいっしょに仲よく経営する話です。  彼らの背後には、現代のロンドンのかかえる諸問題、失業や外国人労働者や経済の停滞が見え隠れしているのですが、彼らはいたって気楽にそれをやりすごし、店の経営を成功させてしまいます。  貧しい英国青年を演じているダニエル・デイ・ルイスには、これ一作でとりこになってしまいました。  この少しあとでアカデミー賞を取りましたし、『存在の耐えられない軽さ』というしゃれた話題作にも主演していますし、男性化粧品のCMにも出ていますから、今ではかなりメジャーな人です。CMの画面を見たときは、思わず叫んでしまいました。かのクリストファー・ウォーケンが『笑っていいとも!』に出てきたときと同じくらいのショックでした。  この方の魅力は言いつくせないものがありますが、無理してふたつにしぼるとすれば、優雅な身のこなしと、一作ごとでカメレオンのように変わる印象、でしょうか。 『マイ・ビューティフル……』では、もと級友のパキスタン青年と裏通りで|接《せっ》|吻《ぷん》するときの、ステップでも踏むような動作に|見《み》|惚《ほ》れました。ぎごちなく|無《ぶ》|骨《こつ》になりそうなシチュエーションなのに、とても優雅でなまめかしいんです。  こうした特別なシーンでなくても、この方はふつうに歩いたり、立ったりするだけでも、動きそのものが違います。指先から、足の先まで、ダンサーのように全身で演技してるみたいです。  はなもちならない貴族青年の役をやっている『眺めのいい部屋』でも、本のページのめくりかたから、お金の取りだしかたまで、手と指の、いかにもきざったらしい動きを見ているだけで退屈しませんでした。『存在の……』でも、プールの端から端までを、彼がただ歩いていくだけという名シーンもありました。  最近の傑作『エヴァースマイル、ニュージャージー』では、歯の健康を伝導して南米を歩く歯科医にふんしていて、これがまたすばらしく、目が離せないお方です。  以上、ここ数年のごひいき俳優中心おすすめ映画でした。  ほかにも取りあげたい人がたくさんいるのですが、本文よりも『あとがき』が目立ってしまってはいけませんので、このあたりでやめておきます。またいずれ、機会と要望がありましたら、紹介もれした人たちと、女優編もやってみたいと思っています。  残念ながら、邦画のほうはほとんど見ていませんので、こうして紹介することはできません。個々に好きな俳優はいるのですが。  最近はビデオソフトが充実して、以前なら公開時期をすぎればなかなか見る機会のなかった作品も気軽に見ることができるようになって、私のような|出無精《でぶしょう》にとっては幸せな時代となりました。  イメージ・キャスティングの話はどこに行ったのかわかりませんが、趣味と実益をかねて、今日もうちの大画面テレビで映画を見ております。  ではまた、四巻めのこのページでお会いしましょう。今度はたぶん、短めだと思います。   九一年四月 [#地から2字上げ]|小《お》|沢《ざわ》 |淳《じゅん》 |極《ごく》|彩《さい》の|都《みやこ》 ムーン・ファイアー・ストーン3 講談社電子文庫版PC |小《お》|沢《ざわ》 |淳《じゅん》 著 (C) Jun Ozawa 1991 二〇〇二年九月一三日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001